皆さんはお子さんの将来にどのような期待を抱いていますか?

親はいろいろと子供に夢を見るものです。

もし、お子さんがその期待からはずれた選択をしたら、どうしますか?


今日もマルコ1章です。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、
シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。
彼らは漁師だった。

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。

また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、
舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。
この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 マルコによる福音書1:16-20
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


シモンはペトロの本名です。ペトロはイエスに与えられた“ニックネーム”でした。
ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがイエスに従います。
何という効率のよさでしょう。後に十二使徒のメンバーとなる四人をこの日一気にスカウトできたのですから。

四人はいずれもガリラヤ湖を漁場とする漁師たちでした。


「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」

この言葉に、ペトロとアンデレは商売道具の網を捨て、すぐにイエスに従いました。
イエスはほんの短い言葉で職を変えさせてしまったのです。
この“殺し文句”は決して大げさなものではありませんでした。
ペトロもアンデレもその後、本当に「人間をとる漁師」としての人生を送ります。


ヤコブとヨハネは舟の中で網の手入れをしていました。
お父さんと雇い人たちも一緒でした。

ヤコブとヨハネもまた、呼びかけられると、
父ゼベダイと雇い人たちを舟に残して、そのままイエスに従います。

ゼベダイは大切な息子たちに置き去りにされてしまいました。

ゼベダイは他に雇い人たちがいるほどの規模で漁師業を営んでいました。
息子たちに跡取りの期待をかけていたとしても不思議ではありません。
もし、そうだとしたらゼベダイの期待はここで見事に裏切られたことになります。


親は子供に期待します。
ときどき子供のために勝手な夢を抱いたりします。
あたかも子供が自分の所有物であるかのような錯覚に陥ってしまうこともあります。

しかし、その子にはその子の使命があり、自分の人生を選択する自由があり、
ある程度の年齢になればそれを自ら選択することができるのです。

つらいかもしれませんが、子離れが必要な時が来るのを覚悟しましょう。


「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」
                                   (ローマ11:36)

むしろ、子供は神のものであると捉えた方がいいかもしれません。
親は神から子を授かり、その子を養育する役割を与えられているにすぎないということです。


「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
 だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」
                             (ローマ11:33)


期待して育てるのは悪いことではありません。
しかし、親の期待をはるかに超えた高い期待を神が子供にかけていることを考慮する必要があります。


ヤコブとヨハネの天職は漁師ではありませんでした。

彼らもまた「人間をとる漁師」歴史に残る活躍をします。
ヤコブは十二弟子で最初の殉教者となりました。
ヨハネは十二弟子の中で最後まで生き残り、多くの著作物を残しました。
聖書の中には、彼の書いた福音書、三種類の手紙、黙示録が収録されていて、
あらゆる言語に翻訳され、今もなお世界中の人々に影響を与えています。

ゼベダイの期待したような選択を彼の二人の息子はしてくれなかったかもしれません。
しかし、彼らは神の期待に見事にこたえた人生を送りました。

ここまで世界に影響を与えた二人を育てたのですから、
ゼベダイは「養育者」として立派な仕事をしたと言っていいでしょう。


私たちの子供たちも将来何になるか分かりません。
皆さんの期待通りにはならないかもしれません。

彼らは確実に神に愛されています。
自分の使命を自ら見出したとき、世に最高の貢献をしてくれることでしょう。

子供たちに対する神の計画が実現するよう、
親として養育の義務はしっかりと果たしていきたいものです。

それはとても大切で誇るべき任務です。

私たちは決して完璧ではありませんが、その任務に一生懸命取り組んだなら、
どんな選択をするにせよ、将来お子さんは感謝の気持ちを抱いてくれることでしょう。