「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
 『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。
  人の子は、十字架につけられるために引き渡される。』」
                     (マタイによる福音書26:1‐2)


イエスにはわかっていました。
自分がもうすぐ十字架にかからなければならないことが。

彼は神の子でありながら人間として世に存在していました。
当然、感情もあるし、痛みも感じます。

捕らえられる直前、イエスは父である神に自分の願いを打ち明けました。


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それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
そして、彼らに言われた。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

更に、二度目に向こうへ行って祈られた。
「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

  マタイによる福音書26:36-46
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イエスは弟子たちと夜中、ゲツセマネの森に出かけます。

そしてペトロ、ヨハネ、ヤコブを選び、四人で森の先に進みました。
そこでイエスは苦しみもだえながら、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに自分の心情を伝えます。

「わたしは死ぬばかりに悲しい」

そして一緒にいてくれるよう要請しました。


イエスは少し離れた所に行き、祈り始めます。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」

父親に、できるなら十字架にかからなくてもよいよう計画の変更をお願いしたのです。
でも、こうも付け加えました。

「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」

お父さんの意志を優先させようという気持ちに変わりはありませんでした。


必死に祈った後、弟子たちの所に戻ってくると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは眠りこけていました。


イエスは再び祈りに行きます。

「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」

どうしても、というのなら、お父さんの計画が行われるようにとイエスは神に語りかけました。


三度目の祈りを終えた時、イエスは意を決しています。


この晩、弟子たちが眠っている先で、親子の会話がなされました。

イエスは自分の考えを父親に素直に伝えています。
しかし、父親に対する従順さに揺らぎはありません。

なんという親子関係でしょう。


「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
                            (フィリピの信徒への手紙2:6-9)


父である神も苦しかったに違いありません。
自分の子供が苦しむ姿を見て心が痛まない親はいません。


この親子がここまでしなければならなかった理由は一体何だったのでしょう?


イエスは父親に従い、十字架にかかります。

計画が成就した後、従順を貫き通した息子を父である神は高くお上げになりました。