わたしは24時間テレビは見てないけど、わたしが支援していた団体は子ども食堂を運営していた。



その子ども食堂は、子どもなら誰でも来ていい。

無料で食事を提供したり、たまには調理実習をして自分たちで食事を作ったり。

オトナも来ていいが、お食事には少しお金をいただく。


子ども食堂の利用に制限をつけると貧しい子を炙り出すことになるからだ。


今はフリマサイトや安い衣料品店もあり、子どもたちの衣服はそこまでみすぼらしくないし、子どもも自分の家庭状況は隠そうとする。

それが貧困を見つけづらくする。


だが、子どもたちの中にはホールケーキ(実物)を見たことがない子がいたり、常に親が不在なため、カップ麺の作り方さえ知らない子もいる。

貧困家庭の食卓=カップ麺、ではないのだ。

金だけ与えて帰宅しない親もいる。




子ども食堂に来る子どもたちの親の状況を見て、必要な支援をする。



延々と物を与え続けることが支援ではなく、自立できることを目指す。



行政と協力して公的支援の受給、住む場所の確保、カウンセリング、就業支援。。。



かわいそうなひとに施す、こんな上から目線の思考でボランティアをしているひとはいない。

お腹を満たすことは一次対応で、このひとたちが生きていけるようにしてあげることが最終目標だ。

食事や甘いものを与えて、子どもたちが施してくれる自分を聖母のように崇める絵を脳内で描いているバカには子ども食堂をやる資格はない。


子ども食堂は、世間に対して訴求しやすい活動だ。

企業や個人からの支援も集まりやすい。

だけど、そんな人々の関心は一過性のブームになりやすい。


ボランティアの中にも、つい特定の子どもに肩入れしてしまい、子どもは純粋にそのひとを慕い、頼るようになることがある。でも、その時同情したとしても、その子の親になることはできない。結局、下手な同情は子どもを傷つけて終わる。そういうひとはボランティアに向かない。

同じような子どもは次々と現れる。

深入りせずに、見放さずに、孤立させずに、流されずに。


そのためにはむしろ、厳しいことも言う。

貧困にハマってしまったひとは、そこから抜け出そうとすることを諦めていることがあるから。



本当にそのひとを救おうとしているひとは優しくはない。