こんなに何度も死亡説が流れた人も、いないと思うが、残念ながら、今度は本当だ……。



ジャニー喜多川氏、逝去。


 解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため先月18日から入院中だったジャニーズ事務所代表取締役社長のジャニー喜多川さんが9日午後4時47分、87歳で亡くなった。


 同事務所が書面を通じ発表した。

 通夜・告別式についてはタレントたちとJr.のみで「家族葬」を行う。


 後日、「これまでお世話になりました皆様にはお別れいただく機会をご用意する予定にしておりますので、決定次第、ご案内申し上げます」としている。

(引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190709-00000382-oric-ent)


 色々な噂のある人だ。

 本当に愛されたかどうかはわからないが、愛した人だったのだろうなと思う。


 男性タレントだけで、あれだけの規模の組織というのも、もう、新たに作ることはできない気がする。


 というか、


 あの人でも死んじゃうんだ、という感じだ……。



音楽が流れる病室で


 先月18日に救急搬送されたジャニー 氏は、集中治療室から一般病棟に移り、多くのタレント達と面会をして過ごしていた。


 様々な曲が流れる病室を、ジャニー 氏が寂しくないよう、ベテランからJr.まで、多くのタレント達が入れ替わりで訪れて、思い出を語り合って過ごしていたという。


 何度か危険な状態に陥った時も、タレント達が呼びかけたことで、容態が一時的に回復するという奇跡的を繰り返していたというが、2019年7月9日午後4時47分、伝説を残して息を引き取った。

(参照元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190709-00000382-oric-ent)


 SMAPが解散し、嵐も活動休止を予定している。それに次ぐグループ、即ち『興味がなくても毎日見ていて、名前がわかる』レベルまで浸透する国民的アイドルの登場は未だなく、ジャニーズの終焉を感じたのだが、その大黒柱が、とうとう逝ってしまった。


 伝説とか、カリスマとか、そんな言葉が相応しい人が、本当にいるのかと、改めて感じた。



ジャニーズ設立まで


 ジャニーズ事務所設立後の、華やかな話ばかりが取り沙汰されるジャニー氏だが、そこまでの道のりは、波乱に満ちていた。もっとも、あの時代の生まれの人は、みんなそうなのかもしれないが。


 1931年、高野山真言宗米国別院の僧侶である父親のもと、ロサンゼルスで生まれる。


 1933年に一家で日本へ渡航し、大阪市で生活するが、母親が死去。


 第二次世界大戦が勃発すると、子供達だけで和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に疎開。


 1947年に、子供たちだけで再度ロサンゼルスに帰国し、現地の高校に入学。

 この頃、ロサンゼルスのシアターで、ミュージックメイカーのアシスタントとして、アルバイトを経験したことと、1950年の、美空ひばりと川田晴久と共にアメリカ公演のステージマネージメントを行なったことが、芸能界への進出のきっかけになった。


 1952年に再来日してからは、駐日アメリカ合衆国大使館に陸軍犯罪捜査局 (USACIDC, CID) の情報員(通訳の助手)として勤務。


 朝鮮戦争の戦災孤児に英語を教えていたのだが、その為に事前に、朝鮮語をわずか11ヶ月で習得していたというから驚きだ。


 さらに、再来日後はアメリカ合衆国大使館軍事顧問団に勤務。同時に、上智大学国際部(現在の国際教養学部の前身)に進学し、卒業を果たした。


 そして、1960年代初頭、代々木の占領アメリカ軍宿舎で少年野球チームのコーチを務めていた時に、そのチームを『ジャニー (Johnny)』と名付ける。


 メンバーのうちの4人を、映画『ウェストサイドストーリー』を観に連れて行って、共に感動した折に、エンターテインメント事業を興業することを決意し、それが、今日のジャニーズ事務所へと繋がった。


 ジャニー氏に寂しい思いをさせず、無事送り出せたタレント達。不謹慎にも、よかったな、と思う。