中日春秋
2013年7月8日
 核搭載疑惑を持たれた米フリゲート艦が一九八九年、長崎に寄港した。艦長が平和公園で献花した花輪が偶然、倒れた。山口仙二さんは気が付くと、何度も踏み付けていた
▼原爆投下で苦しめた謝罪もない形式だけの献花。被爆地への寄港を許した政府や自治体への怒りも重なったのだろう。被爆者からも批判されたその激しさが、反核平和運動を牽引(けんいん)した源泉だったのかもしれない
▼日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員を三十年近く務めた山口仙二さんが亡くなった。八二年六月の国連軍縮特別総会の演説は忘れられない
▼ケロイドが広がる自身の写真を振りかざしながらの鬼気迫る訴えだった。「私の顔や手をよく見てください。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たち被爆者のような核兵器による死と苦しみを、たとえ一人たりとも許してはならないのであります」
▼演説の締めくくりが「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウオー、ノーモア・ヒバクシャ」の叫びだった。核の数を競い合う冷戦下、核兵器の犠牲者の存在を世界に知らしめた歴史的な瞬間だった
▼核保有国は増えたが、長崎以来六十八年間、核兵器は使われていない。国際世論に訴えて、大国の手足を縛り、核兵器を使わせなかった山口さんの生涯を被爆国の国民として誇らしく思う。