中日春秋
2010年4月13日
 作家の井上ひさしさんが、小遣いで買った初めての本は宮沢賢治の『どんぐりと山猫』だった。すっかり気に入って蔵書印を押し、「ひさし一号」と書き入れた、と随筆に書いている
▼自分が「なんともいえずいいものだ」と思っていた秋の晴れた日の山の姿。それを描く賢治の筆に<ぽかん>となった。「なんともいえずいいもの」だからなんともいえない。コトバではつかまえられない、と考えていた。だが、そこには<わたしたちがなんといっていいかわからなかったものに、ちゃんとコトバを与えている人>がいた…
▼長じて作家となり、小説や戯曲に傑作の数々を生んだ井上さんだ。その悲報に接して、しみじみ思う。井上さんこそ<わたしたちがなんといっていいかわからなかったものに、ちゃんとコトバを与えてくれた人>ではなかったか。それも至極優しいやり方で
▼作品の多くは喜劇の体。戦争を語っても権力を批判しても、まなじりを決したり目を三角にしたりはしない。どんな硬質な主張も柔らかなユーモアや人情に包まれていた。だから、いつもすんなり入ってずしんと残った
▼物書きとしての心掛けだったのか、こんな言葉も残している。<むずかしいことを やさしく/やさしいことを ふかく/ふかいことを おもしろく>
▼この難題にあそこまで迫った作家を、井上さんのほかに知らない。