Sodder_children_disappearance


 ソダー家児童失踪事件


 Cold case.コールド・ケース(未解決事件)Part.1




 事件は、 
 1945年12月24日、クリスマス・イヴ  
 に、発生した。

 場所は、  
 U.S.A ウェストバージニア州フェイエットビル  
 の田舎町で起きた。




 ウェストバージニア州フェイエットビルの現在の風景。









 1945年12月24日に起きた事件だが、この年の1945年8月16日には、第二次世界大戦が終結したとされる日だ。
 戦後数ヶ月で、まだ戦争を引きずっていた頃だ。






 戦時中のヨーロッパ戦線と、広島に原爆が落とされた後の様子。





 米国内での、終戦による、市民の歓喜の様子。
 終戦したとはいえ、米国内もまだ、普通の生活に戻っていたわけではなかった。
 まだ、第二次世界大戦を色濃く引きずって、混乱している頃に起こった事件だ。      
 



 フェイエットビルの小さなコミュニティ(集落)に住んでいたソダー家で、事件は起こる。





 ソダー家の家族写真だが、家族全員で撮ったものではない、まずは、ソダー家全員を紹介する。(1945年12月当時)


George  Sodder
 ジョージ・ソダー
 父親で一家の長

 Jennie
 ジェニー
 ジョージの妻で子供たちの母親  

 John
 ジョン(22歳)長男  

 Marion
 マリオン(19歳)長女  

 Joe
 ジョー(?)次男『第二次世界大戦に参戦していたため不在』

 George  Jr.
 ジョージ・ジュニア(16歳)三男  

 Maurice
 モーリス(14歳)四男  

 Martha  Lee
 マーサ・リー(12歳)次女  

 Louis
 ルイス(10歳)五男  

 Jennie  Irene
 ジェニー・アイリーン(8歳)三女
 
 Betty  Doolly
ベティ・ドリー(6歳)四女

 Sylvia
 シルビア(2歳)五女

 
 ※1945年当時のソダー家、両親と五男五女の計12人の家族。
 次男のジョーの年齢が分からないために、長女のマリオンより上か下か分からない。それと、次男ジョーは、第二次世界大戦に参戦していたため、事件の当日には、フェイエットビルの実家にはいなかった。 


 
 1945年12月24日のクリスマス・イヴ、当日には、次男ジョー以外のすべての家族(11人)がソダー家にいた。


 ●事件の発生する前後の時間軸(事実のみ)を書きます。

 1945年10月(ある日) 

 何日とは示されていないが、10月のある日に、生命保険のセールスマンの男性が、フェイエットビルのソダー家を訪ねてきた。
 男性は、父親のジョージに肘打ちをしてこう言った。
 "Would go up in smoke and your children are going to be destroyed".
 「煙に包まれて、そしてあなたの子供たちは破壊されるだろう」

 "The dirty remarks you have been making about Mussolini".
 「これはすべて、あなたがムッソリーニについて言ってきた汚い発言」のせいだと、ジョージを脅した。



 1945年12月24日、クリスマス・イヴ  

 この日、長女マリオン(19)は、『Dime  Store』(ダイム・ストア)「フェイエットビルのダウン・タウンにある店」で働いていた。彼女が家に帰って、買ってきたプレゼントを妹たち日渡すと、彼女たちは喜んで騒いでいた。

 午後10時頃 
 
 母親のジェニーが起きていた、四男のモーリス(14)と五男ルイス(10)に、もう寝なさいと声をかけ,寝る前に鶏に餌をあげるように言って、末っ子のシルビア(2)を2階に連れていき就寝した。
 

 午前12時30分頃  

 寝ていたジェニーは、電話の呼び鈴の音で起きた。
 女性からいたずら電話だと思われるとりとめもない電話がある。ジェニーは女性の "Weird  laugh" (奇妙な笑い)が記憶に残った。
 電話を切ってジェニーはベッドに戻った。


 午前1時頃  

 眠りに入ったジェニーは、また大きな物音で目が覚めた。どうやら、屋根の辺りに何かが当たったような音がした。
 しかし、その後に音も何もなかったので再び眠った。


 午前1時30分頃 

 ジェニーは、煙の臭いで目が覚めた。
 そして、家が火事になっていることに気づく。
 父親のジョージ、母親のジェニー、長男のジョン、長女のマリオン、三男のジョージ・ジュニア、末っ子のシルビアの6人は、家から脱出できた。
 屋根裏部屋にいた子供たちを救けようとしたが階段がひどく燃えていたために彼らは屋根裏部屋に行くことができなかった。  


 午前2時20分頃  

 火事になっている自宅では、両親や兄たちが5人の子供たちを救出しようとしていたが、電話は通じない。あるはずのハシゴがない。など懸命に行動していたが、結局、午前2時20分頃、家事と分かって45分位たって、家が焼け落ちるまで、その様子を見守るしかなかった。


 12月25日  

 焼け落ちた家からは遺体や遺骨は発見されなかった。
 フェイエットビルの消防署長の F・J・モリスの見解からも子供たちは死亡したとされた。
 モリスは、ジョージに州消防保安官事務所が調査をするまで、このままにするように言った。


 12月29日  

 家事から4日後には、ジョージたちソダー家は、亡くなった5人の子供たちを思うと耐えられないと、モリス署長の意見を無視して、州消防保安官の調査を待つ前に、火事のあった自宅をブルドーザーで壊し、ならして整地してしまった。  


 12月30日  

 この日には、5人の子供たちの死亡診断書が発行された。
 地元の新聞もすべての遺体が発見されたとしたが、後に一部のみが回収されたとした。




 1949年8月  

 火事の後、ジョージたちの紆余曲折はあったが、正式なできごととして、この年に父親のジョージは、ワシントンDCの病理学者 Oscar  Hunter オスカー・ハンターを説得して焼け落ちた家の跡を掘り起こし、遺物と遺品を発掘した。人の椎骨も見つかり、スミソニアン博物館で鑑定してもらう。
 この椎骨は、同一人物の物で、死亡時には、16歳から17歳であったはずだと発表した。  


 1950年  

 1950年に、ウェストバージニア州議会は事件の調査・捜査を取り下げた。 
 しかし、子供たちが誘拐された可能性はあるともした。
 正式な事件捜査はここで終了する。




 ※Part.1では、事実関係だけを書きました。
 ジョージ、ジェニー・ソダー夫妻は、子供たちは生きているとの立場を明確にしていました。
 僕の考える事件の真相とソダー夫妻の意見を、Part.2では書きます。