四帖目第六通 三か条 | 蓮如上人の『御文』を読む

四帖目第六通 三か条

 そもそも、当月の報恩講は、開山聖人(親鸞)の御遷化の正忌として、例年の旧儀とす。これによりて遠国・近国の門徒のたぐひ、この時節にあひあたりて、参詣のこころざしをはこび、報謝のまことをいたさんと欲す。しかるあひだ、毎年七昼夜のあひだにおいて、念仏勤行をこらしはげます。これすなはち真実信心の行者繁昌せしむるゆゑなり。まことにもつて念仏得堅固の時節到来といひつべきものか。このゆゑに、一七箇日のあひだにおいて参詣をいたす輩のなかにおいて、まことに人まねばかりに御影前へ出仕をいたすやからこれあるべし。かの仁体において、はやく御影前にひざまづいて回心懺悔のこころをおこして、本願の正意に帰入して、一念発起の真実信心をまうくべきものなり。それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。
そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。これについて諸国において、当流門人のなかに、おほく祖師(親鸞)の定めおかるるところの聖教の所判になきくせ法門を沙汰して法義をみだす条、もつてのほかの次第なり。所詮かくのごときのやからにおいては、あひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにありて、そのあやまりをひるがへして正義にもとづくべきものなり。
一 仏法を棟梁し、かたのごとく坊主分をもちたらん人の身上において、いささかも相承もせざるしらぬえせ法門をもつて人にかたり、われ物しりとおもはれんためにとて、近代在々所々に繁昌すと云々。これ言語道断の次第なり。
一 京都本願寺御影へ参詣申す身なりといひて、いかなる人のなかともいはず、大道・大路にても、また関・渡の船中にても、はばからず仏法方のことを人に顕露にかたること、おほきなるあやまりなり。
一 人ありていはく、「わが身はいかなる仏法を信ずる人ぞ」とあひたづぬることありとも、しかと「当流の念仏者なり」と答ふべからず。ただ「なに宗ともなき、念仏ばかりはたふときことと存じたるばかりなるものなり」と答ふべし。これすなはち当流聖人(親鸞)のをしへましますところの、仏法者とみえざる人のすがたなるべし。さればこれらのおもむきをよくよく存知して、外相にそのいろをみせざるをもつて、当流の正義とおもふべきものなり。
これについて、この両三年のあひだ報恩講中において、衆中として定めおくところの義ひとつとして違変あるべからず。この衆中において万一相違せしむる子細これあらば、ながき世、開山聖人(親鸞)の御門徒たるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。   [文明十五年十一月 日]