一帖目第九通 優婆夷 | 蓮如上人の『御文』を読む

一帖目第九通 優婆夷

 そもそも、当宗を、昔より人こぞりてをかしくきたなき宗と申すなり。これまことに道理のさすところなり。そのゆゑは、当流人数のなかにおいて、あるいは他門・他宗に対してはばかりなくわが家の義を申しあらはせるいはれなり。これおほきなるあやまりなり。
それ当流の掟をまもるといふは、わが流に伝ふるところの義をしかと内心にたくはへて、外相にそのいろをあらはさぬを、よくものにこころえたる人とはいふなり。しかるに当世はわが宗のことを、他門・他宗にむかひて、その斟酌もなく聊爾に沙汰するによりて、当流を人のあさまにおもふなり。かやうにこころえのわろきひとのあるによりて、当流をきたなくいまはしき宗と人おもへり。さらにもつてこれは他人わろきにはあらず、自流の人わろきによるなりとこころうべし。つぎに物忌といふことは、わが流には仏法についてものいまはぬといへることなり。他宗にも公方にも対しては、などか物をいまざらんや。他宗・他門にむかひてはもとよりいむべきこと勿論なり。またよその人の物いむといひてそしることあるべからず。
しかりといへども、仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物さのみいむべからずと、あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。まづ『涅槃経』にのたまはく、「如来法中無有選択吉日良辰」といへり。この文のこころは、「如来の法のなかに吉日良辰をえらぶことなし」となり。また『般舟経』にのたまはく、 「優婆夷聞是三昧欲学者{乃至} 自帰命仏帰命法帰命比丘僧 不得事余道不得拝於天不得祠鬼神不得視吉良日」{以上}といへり。
この文のこころは、「優婆夷この三昧を聞きて学ばんと欲せんものは、みづから仏に帰命し、法に帰命せよ、比丘僧に帰命せよ、余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」といへり。かくのごとくの経文どもこれありといへども、この分を出すなり。ことに念仏行者はかれらに事ふべからざるやうにみえたり。よくよくこころうべし。あなかしこ、あなかしこ。
  [文明五年九月 日]



【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」は文明五年九月とあるから、蓮師の吉崎時代のものであることには相違ない。誰に宛てたものかは種々異説があるので明らかでない。この「御文章」は、迷信呪術に対する態度を明らかにされている。現在わが国は迷信列島といわれるほど迷信が惨透している。科学文明の発展と並行して迷信呪術の花ざかりとなっている。新聞、テレビ、雑誌等、この宣伝にあけくれている。仏教本来の立場はもちろん、特に浄土真宗では、このような迷信呪術を親鸞聖人以来きびしく戒めてきたのである。すでに『教行信証』「化身上巻」の末巻の内容や、親鸞聖人の晩年の作である『悲歎述懐和讃』をみると明らかに知られる。元来根本仏教の上でも、釈尊は是認していないことがスッタニパータによって明らかに知られる。すなわち「正しい遍歴」によると(三六〇条)、
 師はいった。瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は世の中に正しく遍歴するであろう。
とあり、さらに、親鸞聖人も「化身土巻・末」には『涅槃経』と『般舟三昧経』を引用され、蓮師もこの二経の文を本章の終りに出されている。仏教本来の上からも、このような人間の運命を支配するものを外に求める迷信呪術の思想は是認しないのである。法然上人の『和語灯録』巻五には次の如くある。
 七才の子しにて、いみなしと申候はいかに。答、仏教にはいみといふことなし。世俗に申したらんやうに。いみの日、物もうでし候はいかに。答、くるしからず。本命日も、八専に物まうでせぬと申すはまことにて候か。答、さること候はず。いつならんかに、仏の耳きかせ給はぬことのなじか候べき。産のいみ、いくかにて候ぞ、またいみもいくかにて候ぞ。答、仏教にはいみといふこと候はず。
 これらの忌みは神道でいう血穢をいっているようである。このように物忌みを否定されている。しかるにわが国では、平安仏教で日本民族の土族信仰と混同し、仏教の中にも入りこみ、「外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」の類が常識のごとく一般化したようである。蓮師の時代も同様で、他宗や公方には抵抗なく受容され、物忌みを行っていたのである。さらに、高度な科学文明の進歩せる現在においても公方(政府)や他宗は平然として行っている。このような迷信呪術に対する態度を明らかにしたのが今の「御文章」である。
 蓮師は念仏者以外の者、迷信呪術の虜となっている者に対して、頭から否定するような態度は厳しく戒められている。それは争いの因由となるからである。この点、一神教を母体とする西欧宗教のような方法論と異なるのである。むしろ彼らの立場を是認しているのである。しかし念仏者だけはこのような迷信呪術の虜となってはいけないと戒められているのである。元来、浄土真宗では「迷信呪術に迷ってはいけない」と律法的にいうのではない。迷う必要がないのである。他律的に考えられているが、逆に迷う必要のない世界を与えるのである。その答えが念仏そのものである。というのは人間の迷い心は自らの不安からきているのである。この不安は一時的なものではなく、生きているということ、そのことに直接しているのである。人間に生まれて、最後の死の瞬間まで持続している不安である。すなわち生死の問題である。この生死の問題の正しい解決の答えを見い出すことが、念仏の法にあうことである。ここにいかなる災禍にあっても安心して生きていく道が間かれるのである。
 また人間の運命を支配するものを、他に求めるのが一般の外道である。日の吉凶、方位の良否、墓相、家相、性命判断等、すべて自らの外に運命を決定するものを求め、自らに危害を加えるような亡霊等を外に求めるのである。念仏の教えは外にあるものもさることながら、より恐ろしいものを、自らの中に見い出すのである。源信和尚の極重悪人、法然上人の極悪最下の人、親鸞聖人の「煩悩具足の凡夫」といわれるのは、等しく自らの中にデモーニッシュなものを見い出しているのである。それゆえ、何よりも恐ろしいものは、外にあるよりも自らの主体の底に横だわっているのである。鬼は自らの中に存在する。この鬼が鬼のままで仏になる念仏の法にあうと、全く怖いものはすべて消されてしまうのである。それゆえ、念仏の法にあうと迷う必要がなくなる。それゆえ、迷信は正信によってのみ解決され得るので、いかに科学が進歩しても解決されないことは現実の社会において実証されている。禅家のいう「日々これ好日」ということもこのような生死の問題をこえた場において開かれるので、仏教一般においても通ずるのである。

〔用語の解説〕
・他門他宗-他門とは法然上人門下の異流のこと、西山、鎮西義等をいう。他宗は天台宗、真言宗、日蓮宗、禅宗等をいう。
・ものいむー不浄なこと、不吉なことをきらう。たとえば葬式の時に塩をまいたり、結婚式に大安吉日をえらんだり、葬式で友引の日をきらうようなことをいう。