一帖目第三通 猟漁 | 蓮如上人の『御文』を読む

一帖目第三通 猟漁

 まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。
このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
  [文明三年十二月十八日]


【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
生活即仏教
 この「御文章」の来由は三説あって確実なことは不明であるが、三説ともに蓮師が吉崎に移住されはじめの文明三年のもので、漁業を営む漁師に宛てた「御文」であることは共通する。
 仏教ではすべてのものの生命を尊重する。栂尾の明恵上人は、虫けら一匹でもまたいで通ったといわれる。それゆえ師の出生地の紀州湯浅の寺は施無畏寺といわれる。第十八願の十方衆生は、異訳では「蜎飛蠕動の類」もその内容とされている。人間中心の西欧思想とは全く対蹠的である。それゆえ、仏教では殺生は厳しく戒められ、十悪のはじめにも出されている。出家者の精進の生活、さらに命日に精進をするのもこの殺生を禁ずることからきているのであり、すべてのものの生命を尊重する思想からきている。現在このような精神が復活すれば自然保護、動物愛護の必要はないであろう。また目を覆うような残虐行為もあり得ないし、人間が人間を殺し合う戦争もあり得ない。このような意味で、生きものを殺す猟師等は当時の社会では一般から余り尊敬されなかったようである。『歎異抄』十三章にも、
さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。
とあり、いかなる職業の人でも救われないものは一人も存しないのが浄土の教えである。出家仏教の聖道門では、自ら精進潔斎の生活をしなければ「悟」の世界に入ることは不可能であるが、浄土の教は十方一切の人、一人ももれず救われる教えである。それゆえ、「造罪の多少を問わず」「修行の久近を論ぜず」「善悪智愚をいわず」極悪最下の人の救われる法こそ弥陀の本願である。この万機普益の法の前には、人間そのものの上に何らの差別もない。また職業にも世の中のためになるものであれば何らの差別もあり得ないのである。それゆえ、仏教においては、真実の意味において、平等の実践は念仏の法においてのみ可能といわれるのである。
 しかも弥陀如来の本願の前では、「この私」という場を除くと通じないのである。『歎異抄』後序の文にも「聖人のつねのおほせには弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」とある如く、私一人を除くと本願は通じない。
 この私が極重悪人であり、極悪最下の人である。それゆえ、法然聖人のいわれるようにこの私のようなものでも救われ、十方一切、一人ももれずたすかることができるのである。十方一切の人、一人ももれずたすかるということは、他力の法にしてはじめて可能である。自らの行を是認すると、すべての人には通じないのである。それゆえ、次に「一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり」という安心を出されている。この私のたすかる、たすからないという心配はすべて弥陀の本願のはからいにあり、その本願のままに成就された名号法が、自らの求めるに先行してすでに与えられているのである。それゆえ、自らのはからいは否定されざるを得ないのである。
 このことを一心に弥陀をたのむといわれるのである。


〔用語の解説〕
・妄念妄執のこころー無明煩悩、自己中心の眼鏡をかけて人生をうけとっている生活をいう。
・奉公をもせよー公門につかえることをいう。世俗的にはかつては田舎の娘さんが、都会の豪邸等に女中にいくことを女中奉公といわれた。
・いたづらものをー空虚な生活。