紫電改の六機という本を読み終えました。
何よりも悲しかったのが、ただひとり既婚者だったという武藤少尉があと22日耐えられれば生き残れたのに戦死してしまったということです。
武藤少尉は空の宮本武蔵という異名を持つほど、すぐれた戦闘機パイロットでかつ、人に対する思いやりを忘れなかったそうです。
3年間の結婚生活で一緒にいられたのは、ほんの少しの間だったといお二人。昭和18年10月武藤少尉が横須賀航空隊勤務で帰って来た時、長い間ごくろうさまと帰国したことに、ほっとしたようなお手紙を書かれていたのを見て、やっと一緒にいられるかも、と奥様が期待をしたことが想像できます。
いつも死と背中合わせの日々を送っていた武藤少尉は、あるとき「自分が戦死したらどうする?夫に戦死されて尼さんになった奥さんもいるって聞いたよ、まあいいや、お前は好きなように生きるんだね。しかし、俺は死んだら蓮の台に半座を空けて君のくるのを待っているよ、な」とも言ったそうです。
そのあと、出陣が決まったときに妻に送った手紙の結びに、お前もジャンジャン手紙を書いてくれ。しかし、俺からはとうぶん手紙は出せないからそのつもりで。
では元気で。お前が何かガッカリしていると俺は予感ですぐ分かるんだから。
俺には心配かけないよう朗らかな気持ちで古里に帰るよう。しばらくさらばだ。
戦地にいながら、いかに奥さんからの手紙が届くのが待ち遠しかったか、待っているほうも待っているほうで相当辛かったと思います。
ガッカリしている奥様のことをお見通しな武藤少尉にちょっと笑えました。
最後となった武藤少尉から奥さんへ昭和20年7月16日に書いたの手紙の結びには、「いずれ又」とありましたが、その又はなく、勇者は散ってしまったようです。
奥様は生涯再婚をせず、3年間の結婚生活の中、一番一緒にいられた期間、横須賀での2か月間を支えに生きていかれたようです。そこまで想える武藤少尉と出会えて幸せな一生だったんじゃないかと思いました。
奥様が、ドキュメンタリーで当時を振り返っいて、今でも時々主人のことを夢に見る、主人が前を歩いていて、私が後ろを歩いていて、主人がちょっと振り返ってといった、短かったけど一緒に過ごした時間が昨日のように思い出されると言われていました。


結婚式も武藤少尉が多忙のため出席できず、奥さんの喜代子さんが一人で挙げられたそう。写真も2人別々に撮って後から合成したんだとか、悲しいです。
お写真から拝見するに、武藤少尉はちょっと地井武男さんに似ているような気もします。生きていたら、こんな感じだったのかな、なんて思います。
奥様の喜代子さんも2010年の記録で、数年前に亡くなったと書かれていました。その記録に今頃やっと2人でゆっくり一緒にいるのではとも書かれていましたが、私もそう願っています。半座を空けて待っていた武藤少尉の横に奥様が座って、蓮の台の上に2人で幸せに座っているんじゃないかと思います。
こんな2人の素敵な恋の物語に、Siren's call.
いつも思うのは、特攻などで生き残られた方の顔が素晴らしくいいということです。やさしさがにじみ出ていて生き方は顔に出るんだとつくづく思います。あの年代の方が教師のころは、教え子にわいせつ行為なんていう、自己の欲望を満たすためだけの事件は起きなかったんじゃないかと思います。
59歳教師が教え子にわいせつ行為複数回で、教え子が、PSTD症状になって飛び降り自殺したなんていう被害者だけが徹底的に泣きを見せられるような事件は起きなかったんじゃないかな。
何よりも悲しかったのが、ただひとり既婚者だったという武藤少尉があと22日耐えられれば生き残れたのに戦死してしまったということです。
武藤少尉は空の宮本武蔵という異名を持つほど、すぐれた戦闘機パイロットでかつ、人に対する思いやりを忘れなかったそうです。
3年間の結婚生活で一緒にいられたのは、ほんの少しの間だったといお二人。昭和18年10月武藤少尉が横須賀航空隊勤務で帰って来た時、長い間ごくろうさまと帰国したことに、ほっとしたようなお手紙を書かれていたのを見て、やっと一緒にいられるかも、と奥様が期待をしたことが想像できます。
いつも死と背中合わせの日々を送っていた武藤少尉は、あるとき「自分が戦死したらどうする?夫に戦死されて尼さんになった奥さんもいるって聞いたよ、まあいいや、お前は好きなように生きるんだね。しかし、俺は死んだら蓮の台に半座を空けて君のくるのを待っているよ、な」とも言ったそうです。
そのあと、出陣が決まったときに妻に送った手紙の結びに、お前もジャンジャン手紙を書いてくれ。しかし、俺からはとうぶん手紙は出せないからそのつもりで。
では元気で。お前が何かガッカリしていると俺は予感ですぐ分かるんだから。
俺には心配かけないよう朗らかな気持ちで古里に帰るよう。しばらくさらばだ。
戦地にいながら、いかに奥さんからの手紙が届くのが待ち遠しかったか、待っているほうも待っているほうで相当辛かったと思います。
ガッカリしている奥様のことをお見通しな武藤少尉にちょっと笑えました。
最後となった武藤少尉から奥さんへ昭和20年7月16日に書いたの手紙の結びには、「いずれ又」とありましたが、その又はなく、勇者は散ってしまったようです。
奥様は生涯再婚をせず、3年間の結婚生活の中、一番一緒にいられた期間、横須賀での2か月間を支えに生きていかれたようです。そこまで想える武藤少尉と出会えて幸せな一生だったんじゃないかと思いました。
奥様が、ドキュメンタリーで当時を振り返っいて、今でも時々主人のことを夢に見る、主人が前を歩いていて、私が後ろを歩いていて、主人がちょっと振り返ってといった、短かったけど一緒に過ごした時間が昨日のように思い出されると言われていました。


結婚式も武藤少尉が多忙のため出席できず、奥さんの喜代子さんが一人で挙げられたそう。写真も2人別々に撮って後から合成したんだとか、悲しいです。
お写真から拝見するに、武藤少尉はちょっと地井武男さんに似ているような気もします。生きていたら、こんな感じだったのかな、なんて思います。
奥様の喜代子さんも2010年の記録で、数年前に亡くなったと書かれていました。その記録に今頃やっと2人でゆっくり一緒にいるのではとも書かれていましたが、私もそう願っています。半座を空けて待っていた武藤少尉の横に奥様が座って、蓮の台の上に2人で幸せに座っているんじゃないかと思います。
こんな2人の素敵な恋の物語に、Siren's call.
いつも思うのは、特攻などで生き残られた方の顔が素晴らしくいいということです。やさしさがにじみ出ていて生き方は顔に出るんだとつくづく思います。あの年代の方が教師のころは、教え子にわいせつ行為なんていう、自己の欲望を満たすためだけの事件は起きなかったんじゃないかと思います。
59歳教師が教え子にわいせつ行為複数回で、教え子が、PSTD症状になって飛び降り自殺したなんていう被害者だけが徹底的に泣きを見せられるような事件は起きなかったんじゃないかな。