先日、「一般気象学(第2版)」という専門書籍を購入した。それに加えて以前から持っていた地学に関する基礎知識を網羅した本も持っていたので、これから本格的に動き始める予定である。ただ、その過程において内容を読んで自身の中に落とし込んでから書く必要があるので、少しばかり時間はかかってしまうであろうと見受けられる。

 

それはともかくとして、このブログコンテンツはどのようなニュアンスあるいはその論調をもって調べたことを書いていくのか、といったことを今回は述べたい。

 

基本的に気候変動は、世界気象機関と国連環境計画が共同で設立した政府間パネルである「IPCC」という組織が報告する評価報告書が展開する内容を基軸にして展開されている社会問題であり、「科学の決着は既についた」として異論の余地を挟まないという姿勢が科学者たちに求められている、としている。

 

だからだと思うのだが、IPCCの評価報告書が「絶対的」であるとして疑わないスタンスを取る人々が、科学者なりメディア関係者なり多いと聞く。実際、研究費をもらうために世間一般の主張としての同じ立場を取ることを維持している学者がいる、ということを書籍を読む限りではよく散見される事柄である。

そういった状況からして、「懐疑論」とされる二酸化炭素原因説の否定やデータ改ざんの指摘などをするだけで、正統派サイドからしてみれば、「何を疑っているのか?」という意見を持つのも無理はない話だと思う。

 

一方で、その懐疑論と揶揄されるサイドにつく人々の中に、スティーブン・クーニンという科学者の存在がある。

彼は、米国を代表する科学者の一人で、世界最高峰のカリフォルニア工科大学で筆頭副学長を務め、JASONという、アメリカ合衆国連邦政府に助言を行うエリート科学者の独立したグループの会長も務めた経歴がある。また、コンピュータモデルによる物理計算の権威とも称されている人物である。

具体的な実績としては温暖化対策に熱心な米国民主党のオバマ政権でエネルギー省の科学次官に任命されていて、気候研究プログラムも担当した。そういった党派性から言えば、彼は多くの政策上で民主党を支持しており、気候危機サイドに与する人という定義にもなる。

 

もし、懐疑論サイドに追いやられている彼の主張が、本当に具体的な論拠のない欺瞞に満ちた見解であるとするならば、なぜ彼が「気候変動の真実」という本を著したのか、疑問を呈することにもなってしまう。つまり、最高権威の科学者までもが、「決して気候変動は急進的ではない」という立場を取っているということだ。詳しくはこの「気候変動の真実」という書籍を介してこれからの記事に書いていくが、つまるところ「気温が上がれば人類は滅びる」といったいわゆるメディアなどでよく主張される認識は、全くの欺瞞である、ということになる。

 

このような表現をすると、「懐疑論者」「世の風評を知らない愚か者」といった扱いを受けることが、気候危機を主張しない人々への攻撃材料として頻繁に使われてきた。「気温が上がっていることは事実なのだから、今さらIPCCの言うことに議論の余地を挟む必要がどこにあるというのか」という主旨を言いたくなる、ということなのだろう。

 

だが、世界的な科学権威のこういった発言や書籍の内容を鑑みる限り、事実として起きているに近しい事柄は「決して急進的ではない」という結論に至る、ということになる。

ということは、気候変動における実態は、実はまやかしだった、ということになる。

ではなぜ、正統派の人々はIPCCの主張を聞いて、それを自身の意見であるかのごとく懐疑論者に位置づけられている人々を攻撃するのか。

 

それが、私の思うところではまさに「感情論」なのではないか、とみる。あるいはその延長線上にある「同調圧力」が災いしていることもあるだろう。

以前にも書いたように、私は決して彼のように輝かしい経歴を持つ学問的知識を有する人物ではない。では、なぜこのブログを書くのかという疑問になる。だが、様々な「世界の歪み」を知ってきている以上、そして、SF作家(を目指している)という立場から見て、自身が掲げる「SFプロトタイピング」または「社会プロトタイピング」というジャンルを使って世界全体、特にこの気候変動に関する社会問題の具体的な解決案の提示に貢献しようと考えている以上、体系的な知識を身に着けてこれらのいくつもの主張をまとめることなら、私でもできるのではないだろうか。そう考えるに至り、このブログを始めたわけなのだ。現代が情報で氾濫しているとはいえ、これだけの知識を自由にかき集められる時代に今我々はいるのだから、それを自身で調べて、見解を述べる立ち位置があってもいいのではないか。そう思えるのである。

 

だから、一個人としてできることを展開していくわけなのだが、私の本質的な目的は事実や情報の整合性を調節することに加えて、気候変動における分断の改善を試みることにもある。これだけ実態が指摘されているにもかかわらず、両サイドに分裂して論争を続けているということ自体が、具体的に意味のある対策を先伸ばしにしている大きな要因になっている。分裂もすれば対策も違ってくる。それが気候危機と呼ばれているものへの実質的なものにしろ、気候基金というものへの用途の見直しであるにしろ、本来的な目的を明確に定義しなければ、いつまでもこのような事態が続いていくことは間違いないかもしれない。

 

では、私の言うところの「対策の先延ばし」とは具体的に何を意味するのか。気候危機が危険ではないとみているなら、なぜ、先を急ぐような発言をするのか。

それが70年代頃まで叫ばれていた「地球寒冷化」である。2030年頃から始まる、という話も聞いており、寒冷化は実際に過去の時代において、飢饉や飢餓、食糧不足による動乱などが起きている。温暖化と呼ばれているものよりも遥かに存続の危機を呈する気候変動であり、それが大きな世界的混乱を招くことになりかねない、との指摘もある。それを知る一個人の自分にとっては、以前にも話したように最も提起すべき気候変動問題はこれにある、との判断を下す。

 

さざ波も津波に変わらずは、人は知れず。

巨大な大変動の前触れも、それが形となって現れなけば、人々はその姿に気づかない。

その脅威がまだ来ていない今だからこそ、「温暖化だ」「温暖化ではない」と叫ぶことができるのであって、実際に危機が訪れてからそのことに気づいて騒ぐのでは、あまりにも遅すぎるのである。だからこそ、まず最初に両サイドの分断を終わらせなければならない、と私は考えるのだ。

 

よって、両サイドに共通する「感情論」あるいはそれに付随しているかもしれない「同調圧力」に終止符を打つ必要がある。まだ、猶予がある今だからこそ、できることは必ず、ある。

そう信じて、今後更新していく予定だ。