初めて訪問された方はこんにちは。
知り合いの方はお久しぶりです。
作家を志すと決め、それをここで宣言したあれからというものの、いつも構想に明け暮れてばかりで結果として本文を書いてすらもいない状況がずっと続いており、まるで成功の目途が立っていない。
いい加減に作品として完成させるべきであることを痛感するも、徹底的に構想の出来にこだわる過程は譲れないのだ。
よって、これまで通り真に納得のいく完成に到達するまでいくらでも書き続ける予定だ。
とはいえ、何作品ものうち、既に完成に近づいているものはいくらかある。
あとは、これまで継続してきた信念を実際に具現化するだけだ。
実は以前、このブログは「創世圏 ~森本純輝のSF創作広場~」というタイトルで、SF小説を主軸にした何らかの記事を書き綴る予定のコンテンツだった。
だが、結果として更新の余地など皆無だったし、そもそもにおいてこのブログテーマでは納得がいかないという思念に駆られ続けていた。
その結果、記事を更新するに至らなかったのだと思う。
その一方で、他にも創作したいコンテンツが次第に増えていくようになり、その中に前から関心度の高かった「気候変動」というテーマに基づいたコンテンツを新しく作成しよう、と、メモに書いてあったコンテンツリストを発見したことをきっかけに本稼働することになった。こうしてこの「WARMING or COOLING ~気候変動の真相をSF作家が探る~」というテーマでの本コンテンツが改めて起動することになったのだ。
とはいえ、気候変動というワードを導入したからには、一般解釈という形で「地球温暖化」の研究というイメージだけが強く先行するように見てとれる。だが、私のこのブログは温暖化だけはなく、「地球寒冷化」というテーマについても深く触れるコンテンツとなる予定だ。
一般的に、気候変動という言葉は常に「地球温暖化」という言葉とイコールであり、それとは真逆の位置に置かれる「地球寒冷化」など、耳すらしたことがない人が圧倒的に大多数だろうと思う。
だが、これから主に書籍を参考文献とする内容に基づいていくように、私が生まれる90年代より以前の時代では、「寒冷化、寒冷化」と叫ばれていた風潮が圧倒的に強かったと聞いている。
新型コロナに始まる世界の動向が著しく変動している今日の世界では、今まで「その常識が当たり前で普通だ」と思っていたことが一気にその化けの皮が剝がれる事態に移行しつつある時代へと突入しており、今回のパンデミックの裏側が―陰謀論という位置づけに現在は置かれている分野だとしても―世間一般の人々に徐々に明るみに出てきている状況に今、我々は存在している、という現状を鑑みれば、この「温暖化」というテーマ一つとっても、「果たしてそれは既成の事実なのか?」という疑問を呈する機会に直面することは、日々を生活していく上でしばしば見受けられることも多いだろうと思う。
一見するとこれらの二つは、世界の大動乱の始まりの足音が聞こえない人たちにとっては、まるで関係のない話に思えるかもしれない。
実は、パンデミックの根底では「世界の全体主義への移行」が世界のあらゆる局面で浮彫りになってきており、その「全体主義」という経緯における一環として、「気候変動」というお題目もまた利用されている、という事態があるのだ。世界保健機関「WHO」が規定する「パンデミック条約」は全体主義あるいは新たな情報統制を施行することを前提に進められている、という情報の浸透も少なくない。この気候変動もまた、似たような形式で一般市民からお金を搾取し、政府の意向に沿った政策を実行するためのプロパガンダとして機能している、というのだ。
「気候産業複合体」と呼ばれる社会構造体などが、温暖化リスクを煽動することで巨額の再生可能エネルギー補助金供給へと誘導する仕組み、そして、我が国日本の範囲一つとっても、ESG投資と呼ぶ金融機関や投資家の投入によって、結果的に金融セクターが潤い、一部の人々だけが利益の恩恵をあずかる、といった状況を例に挙げても、一般市民から見て決して芳しいとは思えない事態に今、我々は直面している。
こういった事例をなぜ挙げたのか。
世間一般における多くの情勢認識は嘘でまかり通っていることは、この手の話を知っている人なら大いに首肯する事実ではあるだろうと思う。ただ、それでも、このような世界をまだ知らない方々もかなりの数に上ると見受けられる。パンデミック一つとっても世界は欺瞞に満ちた社会通念で溢れている。その一つにある気候変動というテーマであっても決してその範疇から抜け出してなどいない、ということを強調するためにこのような事例を挙げたのだ。
そのような背景からして、このコンテンツは一方的に「地球温暖化の懐疑派、もしくは陰謀論と呼ばれる分野を示唆した、ただの批判的な持論なのか」と思われることもあるかもしれない。また、既にこのようなジャンルにお気づきの方は「何を今さらわかりきったことを」と一笑に付すかもしれない。
ただ、客観的だと思われる事実やそのような情報だけが「唯一の真実だ」として情報偏重に陥り、「そうではない」との見解を持つ人々をただただ一方的に非難するだけなら、誰でもできるし、今のこの現代においてむしろ蔓延している事態ではある。だが、情報の正誤がどうあれ、単に情報を言語的な武器にして人を非難、侮蔑する行為に走ることは、たとえ人を説得するという立場を取ったとしても、それが果たして最も有効で建設的な手段なのだろうか?そう疑問を呈せずにはいられないのだ。それこそが人々を分断し、目の前の危機的状況の打開あるいは回避を著しく損なわす最大要因になるのではないのか?その手段を通じて実際に大多数の人々が意見を大きく変えたためしはあったのだろうか?
情報の正誤を巡って口論を延々と続けることは、結果として自身が望んでいる「相手の意見を変えたい」という欲望が、実際に相手に「心理的攻撃」としてしか受け取れていない、という結末を招くことだけになってしまう。それが本当に無意味であることを、いつになれば我々は理解する日が来るのだろうか。
とはいうものの、事実に最も近い情報があることもまた、言うまでもない。それを知っているからこそ、相手に知ってほしくて、つい感情的になってしまうことも多々あると思う。その軋轢を解消するためには、この逆風をより大きな風向きとして、全く別の方向へといざなう必要がある。そのためには単に自身が知った情報を押し付けるのではなく、一旦相手が知っている情報の有無に耳を傾けることが重要なのではないだろうか。その上で相手にも説明できるくらいの詳細情報を身に着けて教えた上で、相手に「情報を選択させるというプロセス」を与えてみることが大事なのではないだろうか。
もちろん、それでより多くの人がこのような分野を受け入れることなど、到底できはしないだろう。現代人は世間一般の風潮や規定概念に強く執着する傾向があるからだ。それでも、何らかの「動き」を作ることはできる。自身で決めた具体的な行動が人を変えることも、時としてある。完全に私個人の意見となるが、情報に自身の誠意や志、信念や理念、そして、何らかの具体的な目標あるいは目的があれば、つまり、情に訴えかけることが、もし、仮にできるとするならば、その「動き」は完全に意味があったものとなる。人は情報の可否よりも、感情で動くことが多いと個人的に感じるからだ。
とすれば、このコンテンツはどういった意図にあるのか?
そのような見地を鑑みた上で決めたことは、「温暖化」「寒冷化」という二つの領域のそれぞれの見解をあえて両方とも聞き入れ、その上で最も事実に近いと思われる情報、及びそれに基づく視点を提示することである。もしかしたら、どこかの記事で一方に偏った私見を発言してしまことも時にはあるかもしれない。だが、極力、自身の意見を踏まえずに「どちらが正解か」ということをなるべく回避し、「どちらが事実に最も近いと考えられるか」といった視点に立つことに努めたコンテンツにすることを目的としている。初期段階では、いきなり両者の正否から入るのではなく「温暖化が必ずしも急進的ではないかもしれないこと」を主軸にして更新をしていこうと思う。寒冷化というテーマを扱うのであれば、まず「今現在ヒートアップしている地球気温の上昇は自明の事実と言えるまでに確実性に基づいた情報であるのか?」といったことを踏まえる必要があると、私はそう見るからだ。そうして、最終的に寒冷化という領域に入った時、もちろん参考文献の精度にもよるが、「どのくらい予見の正確性が高いか?」といったテーマとして探っていこうと思う。そのようなスタンスを取る理由は、先ほど言った「情報を比較し、選択肢を自分で取ってもらうこと」にほかならない。
このブログに私個人が特徴とする独自の専門性はない。もちろん、学識として人の上に立てるような学術的な専門知識を有しているわけでもない。ただ、誰でも調べようと思えばできるはずなのに、他人や世間の風潮を信じて自身の意見として同化させ、結果的に他人を攻撃するようなその論調や風潮に終止符の「きっかけ」を生み出す、それだけのことにつきる。結果として、温暖化という立場を取る人がいたとしても、このコンテンツを詳しく読んでそれで自身が納得のいく決断を下したのだから、それを「真実の情報と定義されたものへの背徳」ではなく、「その人の中に入った情報量における判断方法およびその材料が自分とは異なるルートを辿ったから」という見解として享受するにとどめる。だが、それなりの情報量を集めることは徹底していきたい、と考える所存である。批判や否定ではなく、「その人が納得できるまでの情報を提示すること」、本コンテンツの目的をそう言い換えてもいいかもしれない。
今後ともご愛顧のほどをお願いしたく思う。