真田丸が現在の大阪明星学園付近にあったことは、確かなようです。
和睦後、徳川方によって破壊された真田丸の痕跡を探す前に、豊臣軍10万の配陣図を見てみましょう。
大坂城の三方は水堀で、敵が侵入するのは困難。
南西の空堀は直線ではなくクランクになっており、正面と横から攻撃されやすい。
唯一徳川軍が城に侵入出来そうな場所は、東にまっすぐ伸びる空堀です。
真田幸村は、城の弱点を逆手に取って、出丸を築きました。
ブラタモリ御一行さまは、昔と今を重ねた地図を片手に、真田丸跡地の周辺を調査します。
↓真田丸の出丸
心眼寺の石垣は、明治時代もっと高かったようです。
⑤心眼寺:真田丸東側の崖
心眼寺を訪ねると、住職の橋本さんは秘密の段差を案内してくれました(お墓があります)。
*心眼寺は1622年、白牟和尚が真田幸村 大助親子の菩提を弔うために建てられました。
徳川の目を恐れて、真田のことは公にしてませんでしたが、2014年の400回忌に幸村の墓が建てられました(*´-`)






