明治7年、北方警備と開墾のため屯田兵制度が出来たとき、北海道のどこに屯田兵村を置くか議論されました。


月寒案 (ことにTVより)



札幌本府を護るため、小樽と本府の中間が良いということで、銭函・朝里案もありましたが、山と海岸線が接近していて開墾が難しいことから却下。
結局、交通の要所で扇状地の琴似に決まりました。


明治7年に琴似屯田兵屋が完成し、翌年にかけて208戸が移住。
出身地は会津藩、庄内藩、亘理藩。


特に会津藩は、戊辰戦争に敗れて下北の不毛の地(斗南藩) に移った人々が、あまりの辛さに耐えられず、北海道の開拓に望みを託して志願した経緯があったようで、エピソードを読むと込み上げてくるものがあります(・_・)..


ある子孫のかたの手記 (財界さっぽろonline)によりますと..
1年畑を耕して、わずかなじゃがいもが採れただけの下北から、果物や茸、川魚がいっぱいの北海道。
冬は寒くてランプの油も凍るほどでしたが、心に希望の灯をともし (私の加筆)、みんなで力を合わせて開拓したようです。


ありがたいですね(´- `*)


《2/5 追記》

明治8年、琴似屯田兵村の分村として、発寒に屯田兵32戸が入植。

ある亘理藩の子孫のかたの動画インタビュー(学生さん制作)によりますと..
じゃがいも、人参、キャベツを栽培し、午前2時にリヤカーで円山市場へ向かい、朝市で販売。

開墾で大木を伐るとき、蟻が手に登ってきて大変だったそうです。


《追記》
2024/4/9㈫ 北海道新聞