札幌で本格的に開拓が始まる前から、何人かのひとは前のめってました。
・嘉永5年(1852)、福島のとある家族が蝦夷に入り、松前で人夫、小樽でニシン漁、張碓でお菓子売り等を経て、安政6年(1859)篠路に落ち着く。
難しい水田作りに挑戦し、わりと上手くいって賞賛される。
・安政4年、銭函~豊平~千歳~勇払をつなぐ札幌越新道の開削開始。
平岸3-1付近に通行屋(旅人の休憩宿泊)ができ、志村てついち氏は通行屋の番人を務め、札幌市内最初の和人居住者のひとりとして札幌開祖と呼ばれる。
《2/3 追記》
・元禄時代(1700年前後)、すでに和人とアイヌが発寒で生活していたとの記述有。
・安政4年、山岡清次郎氏他17人が農家18戸を誘って、発寒の稲荷街道沿いに入植。
農作物を栽培しながら開墾。
同年、幕臣20人も入植。
ちなみに発寒(はっさむ)はアイヌ語でハチャム・ペツ=ムクドリのいる川。魚が豊富。
発寒移住記念碑がいくつかあって、古くから開墾が進んでいた地域であることがわかる。
⭐⭐⭐
そして明治2年(1869)、開拓使が設置され、蝦夷地が北海道と改称されます。
6年後、北海道最初の屯田兵が琴似に入植するのですが、実は屯田兵がくる前から、市内あちこちで開墾が始まってました。
例えば..
明治3年、山形県酒田の農家さん30戸90人が銭函の港に到着。
馬と徒歩で1ヶ月旅し、大木と沼地の円山地区に入植。
ヒグマ、鹿、タヌキに悩まされたという。
明治4年、岩手から平岸と月寒に入植。
平岸ではりんご栽培、月寒は北広島方面までエリアを広げ、後に陸軍第7師団の兵営が設置されて軍都となる。
続く(*´∀`)
・嘉永5年(1852)、福島のとある家族が蝦夷に入り、松前で人夫、小樽でニシン漁、張碓でお菓子売り等を経て、安政6年(1859)篠路に落ち着く。
難しい水田作りに挑戦し、わりと上手くいって賞賛される。
・安政4年、銭函~豊平~千歳~勇払をつなぐ札幌越新道の開削開始。
平岸3-1付近に通行屋(旅人の休憩宿泊)ができ、志村てついち氏は通行屋の番人を務め、札幌市内最初の和人居住者のひとりとして札幌開祖と呼ばれる。
《2/3 追記》
・元禄時代(1700年前後)、すでに和人とアイヌが発寒で生活していたとの記述有。
・安政4年、山岡清次郎氏他17人が農家18戸を誘って、発寒の稲荷街道沿いに入植。
農作物を栽培しながら開墾。
同年、幕臣20人も入植。
ちなみに発寒(はっさむ)はアイヌ語でハチャム・ペツ=ムクドリのいる川。魚が豊富。
発寒移住記念碑がいくつかあって、古くから開墾が進んでいた地域であることがわかる。
⭐⭐⭐
そして明治2年(1869)、開拓使が設置され、蝦夷地が北海道と改称されます。
6年後、北海道最初の屯田兵が琴似に入植するのですが、実は屯田兵がくる前から、市内あちこちで開墾が始まってました。
例えば..
明治3年、山形県酒田の農家さん30戸90人が銭函の港に到着。
馬と徒歩で1ヶ月旅し、大木と沼地の円山地区に入植。
ヒグマ、鹿、タヌキに悩まされたという。
明治4年、岩手から平岸と月寒に入植。
平岸ではりんご栽培、月寒は北広島方面までエリアを広げ、後に陸軍第7師団の兵営が設置されて軍都となる。
続く(*´∀`)