『ライ麦畑でつかまえて』の野崎孝さんによる邦訳は、


読んだ人は分かると思うが、原文の口語的要素をどのような日本語に訳すかと考えた結果なのか、個性的な文体で訳されている。


ひょっとすると好みが分かれるのかもしれないが、私はとても好きで、主人公にして語り手でもあるホールデン・邦訳・コールフィールドの日本語はどこか親しみを持って読むことができる。


それはもちろん、私が生まれてこのかた家庭でも社会でも、こなれた口語にせよ形式ばった文章表現にせよ、日本語で最も多く言語活動をしてきて、前者の方をより親しみやすいと感じる母語感覚を持っているからだろう。


それでは、英語はどうかというと、


私は『ライ麦』の原文を読んだ時、その口語的な文体に、読み進めながら慣れるのに時間が必要だった。


それはきっと、私の触れてきた英語に偏りがあったからだ。


私が最も多く触れてきた英語はニュースや学術書などのアカデミックな語彙、文体で書かれたものが多くて、口語要素の強いサリンジャーの傑作を読んだとき、こういう文体に自分は不慣れだと感じた。


もちろん、『ライ麦』は文体こそそのような口語体だが、使われている語彙は高尚なわけではなく、むしろ簡単な言葉で書かれているので話は普通に理解できるし、なにより面白い。


単語を覚える、文法や語法をマスターする、正解な発音を身につける


言葉を知るためにやるべき事はたくさんあるけど、様々な文体に親しむのも大切で、とくに触れる文体の傾向が偏りがちな環境にいる場合は意識的にやる必要があると思う。


ブルームバーグの経済ニュースも、オックスフォード出版局の研究書も、すらすら読めたら素晴らしいことである。辞書を引いてじっくり向き合う私には、そんな人は秀才に見える。


一方でそんな優秀な人たちと同じくらい、映画や現代小説のハイコンテクストな口語表現を理解する文化教養のある人や、あるいはシェイクスピアやチョーサーを原文で読める人なんかも、なんて深い知見のある人なんだろうと尊敬する。


ベトナム語だったら、グエン・ニャット・アインなどの現代作家はもちろん、金雲翹新伝みたいな古典までベトナム語で楽しめたら、きっとそこには今の私の言語観では見ることのできない景色が広がっているような気がする。


まあ、高校の古文の授業はおろか、現代文であるはずの舞姫すらお手上げだった私には、そんな境地はまだまだ遠いだろうな