白紙という恐怖 | THROUGH MY FINDER

白紙という恐怖

 長髪の無骨な男、見たことの無い顔だ。とたん、僕は自分がなにものかもわからぬ恐怖心を抱き震えが止まらなかった。見たことの無い手。見たことの無い顔。自分の顔であるはずがそこには自分の顔と認識できる顔は無かった。かといって、自分がどんな顔であったのか思い出す事もできない。僕は恐ろしくて布団の中に飛び込みうずくまった。僕は自分の体が器だという感覚を覚えた。そしてその器のなかの心臓がばくばくとと鼓動し整わない怯えた呼吸だけがそこにあった。僕は自分が誰だかわからない。この僕という意識だけが誰かもわからない器に突如埋め込まれているのだ。
誰もいないその部屋で、僕は自分が誰なのか思い出そうとした。僕はどこから来たのだ?僕は誰だ?名前は?どこに生まれ、どこで育ったのか?僕の頭の中のどの細胞も僕の過去に関しては口を閉ざしている。あるいは伝えようとしてはいるがどこかでそのパイプがカットされている。

 僕には大雨の中歩いていたこと、一人の女性が土砂ぶりの中、雲のその先を眺めていた記憶しかなかった。記憶がなければ、僕という体はただの器だった。意識と体という器。
僕は布団の中で自分の指を動かしてみる。まず左手の人差し指、曲げようとすれば、ちゃんと曲がってくれる。左手の拳を強く握ってみる。自分の顔をなでる。頬、額、鼻、口、顎と順に触れていく。自分という器が確かにここにあり、僕の意思通り動いてくれる。これが僕という形なのだ。どうにもならないことなのだ。恐れることでもない。そよりも僕は今の現状をもっと知る必要がある。そして布団から顔を出す。僕は仰向けになり天井を眺めてそんなことを冷静になるために考えた。そこは前見た通りの、とある部屋である。見たことのある部屋。僕の記憶は記録し始めた。レコーディングが始まった。知っているということはある種の安堵感を与えてくれる。僕はこの部屋を知っている。布団から出て部屋の中を歩く。自分の足元をのぞいてみる。足も僕の意思通り動いてくれる。その足で窓の前まで進み、レースカーテンをあけてみる。荒れた庭がそこには広がっていた。 僕は部屋から出ようとした、しかし僕の足はドアの前に立てばぴたりとその動きを止めてしまう。僕の意志どおり動いてくれない、まるでドアの前に立った瞬間意思が僕の体らしい器から分離してしまったかのように。ついさっきまでは僕の言うことを訊いた僕の体はゆうことを訊いてくれない。そこには視覚しかなかった。それ以上の感覚はまったく消えうせてしまうのだ。僕は後ずさりしもう一度部屋の窓から外を眺めようと思った。
外はもうすっかり雨があがり明るい日差しが部屋の中に入り込んでいた。部屋から見る庭、庭というより荒地だ。砂利と雑草しかない荒地だった。その奥に一人の女性が立っていた。あの雨の中に雲を眺めていた彼女だ。空をじっと眺め、穏やかな表情を浮かべてコスモスに水をやっている、彼女はとても幸せそうだった。時折彼女は耳に手を押し当て目を瞑った。口元には微笑があった。僕は彼女を知っている、世界の中で唯一僕が知っている人。
もう一度窓から荒地に目を向けたとき彼女の姿はそこにはなかった。はと、思ったとき、ちょうど部屋のドアが開いた。