LGBT の人権問題に対する 英米駐日大使・大使館の奇矯な態度の根底 | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 最近、また、米英の駐日大使たち・同大使館が、声を揃えて
  「日本は、LGBT の人権擁護が遅れている。ケシカラン!」
などという上から目線のエラソーなことを言っていて、ネット上には、多くの反発の声が溢れている。
 その中の多く、例えば「内政干渉だ」とか、については、私も同感だが、それ以外にも触れておくべき点があると私は思う。

 大体、そもそも、日本は、同性愛など、性的少数者に寛容な社会であった。

 元々同性愛に偏見が無かった日本が 明治以降 欧米並みに成り下がったのは、欧米との不平等条約の解消の為に 欧米並みの法整備を求められたが その「整備」の見本とした当時の欧米諸国の法制度は その基底に キリスト教倫理があり そのキリスト教倫理に 同性愛への偏見を含んでいたからなのである。

 同性愛への偏見を無くすことは、欧米では、社会の秩序の基盤となっているキリスト教倫理から変更しよという試みであるわけだから、ラディカルな措置が必要だが、日本の場合、欧米の猿真似で改悪した明治維新期の前に戻るだけだから、過激な措置は不要、寧ろ それは LGBT への反発を招く逆効果となりうる。

 今、普通の日本人市民は、「差別の当たり屋」たちに、本当にうんざりしている。ここで、新しく《「差別の当たり屋」LGBT派 》が出現すれば、一般市民の「差別の当たり屋」全体に対する怒りが、新参者の《「差別の当たり屋」LGBT派 》に集中するかもしれない。

 英米駐日大使・大使館のこの件に対する奇矯な態度の根底にあるのは、日本に同性愛への偏見を齎したのは彼らであるという事実から目を逸して、劣ったアジア人を我ら文明国の者が教育指導する義務が我々欧米白人キリスト教徒文明国にあるという妄想世界への現実逃避であろう。