「杉浦」姓 | 安濃爾鱒のノート

安濃爾鱒のノート

これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

( 最初にお断りいたします。これは 自分の為の備忘録です )

 

 私の名字「杉浦」を 最初に名乗った人について、調べて判ったことをメモ。

(私の先祖、という意味ではありません。以下に名前が上がる方々が、私の御先祖様かどうかは判りません。)

 

平良文 (たいら の よしふみ)

 平安時代中期の武将。

 第50代桓武天皇四世。平高望の五男。

 (桓武天皇→葛原親王→高見王→平高望→平良文)

 官位は 従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。

   

三浦 義明 (みうら よしあき)

 平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(:現 神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏の平良文(たいら の よしふみ)を祖とする 坂東八平氏のひとつ、三浦氏の一族。世襲の官である三浦介を号して 天治年間(1124年 - 1126年)国務に参画し、三浦半島一帯に勢力を扶植する。
   
杉本 義宗(すぎもと よしむね)
 三浦 義明(みうら よしあき)の嫡男。衣笠城から 鎌倉により近い場所に拠点を作ることを考え、三浦半島を出て鎌倉郡杉本郷に居を構えて杉本城を築城、杉本を姓とした。
   
和田 義盛 (わだ よしもり)
 杉本 義宗(すぎもと よしむね)の嫡男。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての有力御家人・武将。初代 侍所(さむらいどころ)別当。相模国三浦郡和田の里 或いは 安房国和田御厨に所領があったことから和田を姓とする。北条義時(2代執権)の挑発を受けて挙兵に追い込まれ 幕府軍を相手に 鎌倉で戦う(:「和田合戦(建暦3年(1213年)5月2日))が 敗死し、和田一族も滅亡した。
   
杉浦 義国(すぎうら よしくに)
 和田義盛の八男。
 義宗(:祖父)の 杉 と 義明(:曽祖父)の 浦 を合わせて 杉浦 と名乗った という。和田一族が挙兵し全滅した和田合戦(建暦3年(1213年)5月2日)の時点では 未だ元服していなかったので 合戦に参加せず 生き残った。