胸糞ドラマをみてしまった | 安濃爾鱒のノート

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なんというか、私の「ノート」です。

 胸糞ドラマをみてしまった。

 週末の夜8時台の地上波の、「ドラマ」の類としては、日本では代表的なものとして真っ先に挙げられるのではないか、というドラマである。その中で、或る登場人物が、自分の妻の足(もしくは脚)の障碍(しょうがい)について悪態を吐くシーンである。

 私は 元々 ドラマや映画はあまり見ない方なのだが、その枠で前年やっていたドラマについては、極私的な事情でよく見ていた。そのドラマ自体をよく見るだけでなく、そのドラマに関連すること(:補足情報とか感想を言い合うとか)を扱う Youtube Channels の多くもよくチェックしていた。と、それくらい去年はのめり込んでいたので、ただその惰性で 今年も その枠のドラマを見る習慣を維持してしまい、で、先日、このような不愉快なものを見てしまったのである。

 で、話を戻して、ドラマ制作サイドは、なんでこんな不愉快なものを週末の夜8時台の地上波で流したのだろう。ひょっとして、彼らの発想として、「面白ければ なにをやってもいい」と考えているのだろうか。

 実際、この 自分の妻の障碍に悪態を吐いた者は、その数十分後、これからは自分の妻を幸せにすることに努める人生を送ると宣言するのだから、その 障碍に悪態 のシーンは、その為の準備であり、面白くする工夫であった、と彼らは言うのかもしれない。しかし、それを見てしまったこちらとしては、そんな不愉快なものを見てしまった胸糞不快感が今でも続いてる。

 

 こういう、ドラマや映画をつくる世界の側の人には、「俺たちはクリエイティブな仕事をしているだぁーエライんだぁー。クリエイティブな仕事が出来ないバカな下々のお前らなんかがエライ我々クリエイターサマに文句を言うな!」という選民思想の傲慢さがあって、そこから発生する非常識行動を正当化する方便として「面白ければなにをやってもいい」という決り科白が使われているのではないだろうか。

 

 今の COVID-19 Pandemic が始まったばかりの頃、或るゲージュツカのエライ大せんせーが、「我々は製造業ナドのようなバカがやるしょーもない仕事と違って、非常に有能な人間が 大変素晴らしい作品を制作して、お前らなんかの下々の無能の者達のツマラナイ人生を豊かにしてやっているんだから、政府は黙って補助金を出しなさい」と宣い、世間の批判を浴びたということがあったが、ドラマや映画をつくる世界の人にも、これと同様の感覚があるのだろうか。

 

 

 どうも、私は、映画やドラマを見るのに向いてない人間のようなので、以前のような、映画・ドラマを見ない生活に戻ろることにした。

 

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追記

 これを一気に書いてアップして自分で読み直してみて気が付いたのだが、この文章を読んだ、所謂「差別の当たり屋」「差別錬金術師」、つまり「差別だぁー!ケシカラン!」と騒ぐことを生業にしている、若しくは金を要求しなくても、そういう風に騒ぎたてて「人権擁護活動」をしているつもりになることを生きがいにしているような人達が、私のことを同業者と思うかもしれないなぁ、と思った。

 

 まずい。

 

 私は、あなた方(:「差別の当たり屋」「差別錬金術師」と私に見える人達)の事も、ゲージュツカのエライ先生方・クリエイターのせんせー方と同じくらい、嫌いです。