ラマルク要不要説 と 利己的遺伝子の掛け捨て保険 | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 生物学の進化論の話です。

 進化論と云えば、ダーウィン(Charles Robert Darwin)の「自然選択説」が有名ですが、ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck)の「要不要説」という考えもあります。

 (Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744年8月1日 - 1829年12月28日、"use and disuse theory")

 

 このラマルクの「要不要説」について 上手く説明したものをみつけましたので、紹介致します:

  

 

 簡単に 雑に ラマルクの「要不要説」 と ダーウィンの「自然選択説」を説明してみると、《 キリンの首が長いのは、高いところの葉っぱを食べようと頑張っている内に首が延びたから 》というのが ラマルクの「要不要説」で、《 キリンの首が長いのは、首が長くて高いところの葉っぱも食べられるキリンだけが生き残った 》というのが ダーウィンの「自然選択説」。

 

 大航海時代の後、世界各地から色んな生物種を集めてみることができるようになって、最初は、(貿易で儲けるネタ探しの為に?) ただ色々な種を集めて並べてみるだけだったが、その内、類似性で分類してみるようになって、種のバラつき具合をよく眺めてみると、それらの相互の繋がり、つまり、後で言う「進化」のようなものが起きているのではないか、と考えだす人達が現れ(例えば、ダーウィンの祖父 Erasmus Darwin とか)、で、その後、その進化のメカニズムを考えるものが現れた。それが、ラマルクとかダーウィン。そんな感じで展開していったのかな?

 

 

 約50年ほど前の私が小学校高学年か中学生の頃、6歳年上の従兄は、進化論と云えば{ダーウィン、ラマルク、ド・フリーズ}の3人を習っていて、それを教えて貰った私は、その知識をひけらかそうとしたら、私の時は 進化論と云えばダーウィンしか教えられなくなっていました。

 ラマルクの名前が出てきたのは、高校に入ってからで、それも否定的な意味で、まるで天動説のような扱いでした。

 学校で進化論を教える際、ダーウィンの「自然選択説」だけでいいのか、ラマルクの「要不要説」も教えるべきなのか否かについては、限られた初等教育期間中に、何を教えるべきか?大人になったとき最低これくらいは知っておかないと困るという知識を教えるべきか、科学的に考える力を身に着けさせることを優先すべきか、その点でカリキュラムを練る人達の間で揺らぎがあるのではないでしょうか。

 私の個人的な考えとしては、(今、反ワクチンデマに騙される人が実際に居ることから ) 科学的に考える力を身に着けさせる教育をもっと強化してほしいと思います。

 

 ところで…

 

 偶に、真っ白な狸(野生)が見つかった、などというニュースを見かけます。

 そういう アルビノ(albino) が、沢山ではなく極少数だけではあるけれど、常に生まれてくるのは、氷河期になって 野山が一面の銀世界になったら そういう真っ白い個体が生き残るので、そういうもしもの時の為に、常にごく少数のアルビノが生まれるではないでしょうか。いわば、「利己的遺伝子」が 種の存続の「掛け捨て保険」としておこなったものではないでしょうか。ただ、実際には、氷河期にはならないので、その「掛け捨て保険」要員にされてしまった個体は、ただただ生きにくい一生となるでしょう。利己的遺伝子の残酷さの犠牲ではないでしょうか。で、このアルビノが常に生まれ続けるという現象、ここ1万年くらいずーと氷河期にならず、氷河期への備えとして空振りを続けているのに、それでもアルビノが常に生まれ続けてきているという現象、「掛け捨て保険」としてかなり高い確率で不要(「ハズレ」)となる特性をもつ個体が生まれ続けるという現象は、「要不要説」と反対の現象ではないのだろうかと思います。

 

(「要不要説」への反論とかそういうことではないのですが、ちょっとおもしろいな、と思った話です。)