フランス人にとっての市民権供与の記念式典 | 安濃爾鱒のノート

安濃爾鱒のノート

これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 ちょっと、おもしろいな、と思うニュースに出会った。

 

 フランス人と結婚し、市民権(citizenship/citoyenneté)を得ようとした或るアルジェリア人女性(イスラム教徒)が、市民権供与の記念式典で、宗教上の理由から 男性職員との握手を拒んだことで、市民権供与が停止され、それを不服に思ったアルジェリア人女性が裁判所に訴えたが 市民権供与停止との判決が下った、というニュース、である。

( BBCの記事(英語)  、Islam & Info の記事(フランス語))

 

 これを見て日本の「普通の人」はどう思うのだろうか?
《 弱者であるイスラム系移民の味方をするのがインテリ・良識派の大人の態度だ 》 と思っている人(:「アサヒな人」)なら、《 フランスの市役所・裁判所は酷い 》と 憤るかもしれない。

 

 たとえば、柔道や剣道の試合で、勝った外国人選手が、試合後の挨拶をしないでガッツポーズをして大はしゃぎをしているので、審判が勝利の取り消しを宣言、というケースを考えてみる。
 多くの日本人は、その審判の判断を《 当然の措置だ 》と思うのではないのだろうか?

 

 フランス人は、フランスが 市民権(citizenship/citoyenneté) の発祥の地・本家本元であると考えているので、市民権供与の記念式典も、やはり、神聖視しているであろう。それを、なにか転出届転入届の提出程度のものと軽く考えていたら、それは、罰則の対象になって当然なのではないだろうか。
 それは、柔道や剣道の試合をほかのスポーツのゲームのように考えて勝者が大ハシャギしたら非常に不愉快に思う日本人の心理と同様のものではないのだろうか。

 

 ≪ Liberté, Égalité, Fraternité ≫ という有名な言葉がある。(英訳すると "Liberty, Equality, Fraternity")

 フランス革命時のスローガンであり、1958年のフランス憲法の第2章にあって、現フランス共和国の「モットー」(the motto / la devise) となっていることばであるが、これは、日本では、「自由・平等・博愛」と訳されることがあるが、正しくは、3つ目は 「博愛」ではなくて「友愛」である。友を 友だけを 愛するのである。「『博愛』の国」だったら、「弱者のイスラム系移民の女性の特別な都合くらい配慮してやれよ」と思うかもしれないが、「『友愛』の国」にとって、「友」となったことを示す儀式を軽んじるのなら、「友」として認められない、というのは、当然のことなのだろう。

 

   ーーーーー杉浦 憲二 (Sugíura Kenji) ーー sui generis ーーーーー

 

 

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