セルフ退行催眠 | 安濃爾鱒のノート

安濃爾鱒のノート

これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 大学を出て、電化製品を製造販売する会社(:S社)に入った。

 その会社は、一般の人には、家電製品メーカーという風に理解されているようだが、現実には、家電製品よりも業務用、特に 放送局用機器 で稼いでいる会社だった。

 実際、その頃、放送局用機器部門の利益と全社の利益がほぼ同額だった。

 

 新入社員研修で、

   日本には家電メーカーと呼ばれる会社が数社あるが、

   その内、家電部門でしっかり利益を上げているのは

   M社(:今だと「P社」というべきか?)くらいで、

  うち(S社)は 僅かにプラス。他は、全部マイナス

     -- それらの会社は、発電所や新幹線などの

       重電部門で利益をあげて

      家電部門で利益を吐き出している --

と教えられた。

 

 私は、放送局用機器を製造する部門の、商品設計の部署に配属された。

 そこは、本来なら、工学部電子工学科や機械工学科を出た人が配属されてくるべき部署で、数学科出がそこに配属されてきたのは、その部署の設立以来私が初めてであった。

  実際、やってみて、ちょっと前まで、

    多様体上に測地線を引いてどーのこーの

とか、

    de Rham の定理

とかやっていた者がやるような仕事ではなかった。

 最初の内は、ひたすら、先輩から言われる雑用をするだけの仕事であったが、やがて、とうとう自分が設計を担当する機種を持つことになった。

 先輩からは、なぁに、簡単カンタン、こいつのココとそいつのソコをつなぎ合わせればそれでOK、大丈夫、とかいうふうに教えられ、実際にやってみて、先輩に見せたら、呆れられた。

 いくら新入りといっても、ここまで電子回路のことを知らないとは思ってなかったようだ。

 それでも、散々回りの人に話題を提供しつつ、先輩方の手を煩わせて、なんとか、その

《 こいつのココとそいつのソコをつなぎ合わせるだけ 》、といわれた回路図が出来て、

  -- デジタル回路の時代だから助かった。

     アナログ回路の設計だったら、あんな短期間で

     なんとか意味を成すレベルのものを書くことは

     とても無理だったろう--

続いて、それに載せるソフトウェアの開発になると、大学時代パソコンで遊んでいたのが幸いして、なんとか、普通の新入社員程度に比べそんなには劣ってないレベルくらいにはなった。

 そうして、周りに比べかなり酷いレベルからスタートして、なんとか、回路図を書くとか試作するとかの設計の各段階を匍匐前進して、やがて、それを実際に製造するところまでこぎつけた。

 その頃、自社工場の製造ラインは、もう空きキャパシティーがなく、下請けの町工場に製造を担当してもらうことになった。

 製造が始まる日、その町工場に行った。

 設計担当の私の他に、製造技術の担当者、そして何故か、International Marketing 部から研修に来ていた、慶応のどっかの文科系学部大学院を出た、やけにカッコを付けた二人組がついて来た。

  ( 単に理工系出身の我々が、超ダサダサのかっこ悪いにいちゃんだっただけなんだが )

自分の職場と当時の住まいであった会社の寮があった神奈川県中央部の厚木を朝早く出て、小田急相鉄京急と乗り継いで大田区大森のごちゃごちゃっとした下町の中にあった町工場まで行った。

 着いて、まずは、その町工場の偉い人たちと ひととおりの挨拶をして、さぁ、仕事を始めようと、製造ラインに行ったら、そこに居た、実際に製造を担当する人たちに対し、社長さんが、突然 私のことを、《 この方がこれから作る商品を設計をされた人です 》みたいなことを大げさな言い方で紹介をして、そして、私に、みんなになにか一言をください、とかいった。

 《 えーっ!、そんなこと聞いてないよ。

  困ったな。どうするかな?

  やっぱここは、虚勢を張って

  偉そうなことを言うべきなのかな?

  いやいや、こっちが未だ小僧っ子なの

  バレバレだから、

  ここは謙虚に、御協力宜しくお願いします、

  とかかな? 》

と悩んでいる間も無く直ぐ話さなければならなくなって、こころの準備が全然出来ていない状態でいきなり話したから、もう、グダグダのとても情けない有様だった。

 それでも工場の偉い人たちやおばちゃんたちは、神妙に話を聞くという演技を続けてくれていたが、後ろの方の、ヤンキー卒業したてっぽい連中には、明らかに馬鹿にしきった顔をされた。

 その時点で、すでに完全に面目が丸潰れの早く帰りたいという気分であったが、その後、私が設計し製造技術の担当が段取りを考えた製造工程が進むにつれて、だんだん、商品が形になってきて、精神的な安定は取り戻しつつあった。

 設計はともかく、製造技術の方は、しっかりしていたのだった。

 が、最初の完成品らしきもの第1号が出来てきて、それの動作チェックをしたところ、全然機能しない。電源スイッチを入れてもなにも動作しない。

 2台目3台目4台目も同様。

 焦る。

 よく見ると、電源スイッチを入れると、一瞬だけランプがついてすぐ消える。

 調べてみると、電源スイッチを入れるとすぐにヒューズが飛ぶのだった。

 ここで、私のミスであることが確定である。

 非常に焦る。

 私一人だけ、オタオタしている。

 素人でも簡単に判る酷い設計ミスである。

 その場に居た皆んなに、設計担当の私が酷いミスをしでかしたことが判った。

 

   後から考えると、こちょこちょ設計変更を繰り返していく内に

  各部で消費電力がじわじわ増えていっていて、総消費電力が

  かなり変わっていて、それにあわせて電源 Unit のAC入力側の

  ヒューズの電流容量を直前に変えたのだが、大慌てで 雑に

  決めたので、起動時のオーバーシュート分が考えられておらず、

  電源を入れると すぐに ヒューズが飛ぶのであった。

 

場がしらけた。

 

 工場側の偉い人は、それまで、べったり我々の周りにくっついていたのに、呆れ顔を隠すためか用事を見つけたふりをして席を外す。

 製造技術の担当者は、自分の仕事に専念するふりをしてちょっと距離を置く。

 International Marketing 部の奴らは、それまでマメにあっちこっちに均等に

 話しかけていたのに、私とは目を合わさなくなる。

 製造担当のおばちゃんたちは、なんか、ちょっとの間、待機みたいね、という空気。

 ヤンキー卒業したて組は、<ほれみたことか>と嬉しそうである。

 背中を気持ち悪い冷や汗が流れる。

 

 で、その後のことを全然覚えていない。

 

 次、記憶にあるのは、厚木の自分の席で、設計変更の手続きをしているシーンである。

 その職場では、基本的にみんなスーツを着ていないのだか、その中で外出帰りの私だけスーツを着て、普段の作業の定位置である、ハード設計作業用の机やソフト設計作業用のWSの前ではなく、ドラマの中の会社のシーンのような事務机の列の中にある私の席に一人スーツを着てポツンと座って、設計変更の為の資材部等他部署向けの事務手続きをしているシーンである。

 そこまで記憶が飛んでいる。

 

 それが、二十年以上経った後、突然思い出した。

 東急多摩川線鵜の木駅辺り、線路に沿った道を歩いていたとき、突然、

 《 あっ、ここ、ずっと前、車で通った 》

と。

 当時、環八が、久が原の辺りで途切れていて、その為、その区間に相当する部分だけ、目蒲線(:その後の多摩川線)に沿った道を抜け道として利用されていて、私は、あの日、大森の工場から厚木まで、あの工場の人に車で送って貰ったのだが、その際、ここを通ったのだった。

 車の窓から、あぁ、この長閑な電車は、どこへゆくのだろう、と見ていた。

 これに乗って、どこか遠くにある、長閑な街に行きたい、と思っていた。

 

 そして、そこからずるずると、その前後のことを思い出した。

 あまり思い出したくないことを沢山思い出した。

 

 覚えていないこと、忘れてしまったことを、退行催眠で思い出す、という話があるが、このときの私の思い出しかたは、

そんなようなものなのかな、と思う。