国境の南へ | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 米国 California(カリフォルニア州) の南の端の San Diego (サン・ディエゴ) という街に居た頃の話。

 

 当時、私は、電化製品を作る会社の、Internal Production Promotion という部署に属していた。

 要するに 海外に工場を建てるのを推進するのが役目の部署で、その頃、会社が、この California 州南端の San Diego の郊外に、ノートパソコンの工場を建てる、というので、私は そこに数週間の出張で滞在していたのだった。

 

 その頃、会社は既に San Diego に 巨大なカラーテレビ工場を持っていたから、私の仕事は、その巨大なカラーテレビ工場の脇に、小さなノートパソコン製造ラインを増設するというプロジェクトのうちの、ライン管理システムを導入するという程度の話である。

 

 その San Diego に滞在している間、私は、ほぼ毎週末、車を飛ばして México まで行っていた。

 一回だけ、土・日の二日だけで、San Diego から Grand Canyon (グランドキャニオン)まで行ってとんぼ帰りすというのをしたことがあったが、それ以外の週末は、全て、国境の南へ通った。

 California の南の端から国境を越えてその南に、つまり、México 領からしたら西海岸の北の端に Tijuana (ティファナ) という街があり、その街へ「日帰り海外旅行」を繰り返していたのだ。

 

 ちなみにこの Tijuana (ティファナ)というのは、シーザーサラダ(Caesar salad) が生まれたところである。

 Tijuana (ティフアナ) に住むイタリア系移民の Caesar Cardini 氏が、自分の店で、ピザ用パーツをサラダに使って でっち上げで創って米国人の客に出したのが始まり。

 当時、米国では禁酒法が施行されており、国境の南側の Tijuana には週末には米国人が酒を求めて沢山通ってきていたのだった。

 シーザーサラダ(Caesar salad) は、ローマ帝国の政治家・軍人・文筆家、ジュリアス・シーザー (Gaius Julius Caesar) とは 全然関係ない。

  

 米国と México との間の国境は、米国人と日本人にとっては、実に簡単に行き来出来る。

 往路:米国→México は、テーマパーク・遊園地の類の出口に在る様な、鉄パイプ製の逆戻りが出来ない、無人の回転式のゲートを、自分でガラガラとバーを押しながら歩いて通るだけ。

 まったくの手続きなし。

 日帰りで行って帰る場合は、本当にそれだけでいい。

 復路:México→米国 の方は、さすがに無人ではないが、日本人は、ゲートで係官にパスポートをちらっと見せるだけで済む。会話無し。どうやら、パスポートの残存期間をチェックしているらしい。

 (米国人も まぁ 同様。但し、México人の場合は、かなり面倒な手続きがある)

 実際に国境を越えて行ってみれば、México 側の町並みは米国とは全然違うから、(勿論日本とも全然違う)、実は簡単に行ける割には、かなり遠くまで来た大旅行をしたかのような気分を味わえるので、米国内であって、México との国境に近いところに居る人は、禁酒法が無くても、かなり気軽に、México へ「日帰り海外旅行」にいったりする。

 

 その工場には、日本人は結構居たのだが、スペイン語が話せるのは私一人だった。

 ということで、私は 同じ工場で働く日本人たちに重宝がられて、ほぼ毎週末、米国のSan Diego から、国境の南へ、México の Tijuana (ティファナ) へ「日帰り海外旅行」に行ったものだった。

 一緒に行く日本人は毎回違ったが、私だけは毎週行くことになった。私自身は私なりに、ちょっと懐かしい思いを楽しむことが出来て、かつ、私が引率している日本人たちにちょっと偉そうな顔が出来て、まぁ、それなりに満足していた。

 私が見たところ、Tijiana の街は、私が知っている México の街の町並みとは違って、米国人が勝手に思い描く「México の街」のイメージに、逆に 本物の Tijiana の街の方が合わせている。米国人の勝手なイメージに迎合しているんじゃないかな、という気がしたが、まぁ、それはそれでいいんじゃないかな、と思っていた。

 

 そういう風に ほぼ毎週 日本人グループを引率して、米国から México への「日帰り海外旅行」を繰り返していて、ちょっと気がついたことがある。

 

 まず、彼らは、大体、昼飯は México 領で食べるが、晩飯は、必ず米国に帰ってから食べる。

 別に日本料理店に直行するとは限らないのだが、でも、México 領ではなく、必ず米国内のレストランに入る。

 ステーキを食うなら、出されるものはどっち側でも実は同じで、México 領の方が断然安いのだが、それでも、必ず米国内のレストランに入るのであった。

 そして、帰り、国境のゲートを通り、北へ、米国領に戻り、Interstates をぶっ飛ばして、San Diego のDown Town のビル街が見え出す頃、大体、みんな、ほっとした顔をする。

 声に出して、「ほっとするね」という人も居る。

 その「ほっとする」という気分を

   ( 米国側に帰ると )

  「なんか 9割くらい日本に帰ってきたような気がする」

という風に表現する人も居た。

 私は、それを聞いて、《 あぁ、なるほどね。そうだね、上手く言うね 》と 思った。

 私は、生まれて初めて行った外国が México で、日本人にしては、かなり México 贔屓の方だと自分では思うのだが、そして、私は、Perú (ペルー)には親戚付き合いしている人たちも居たし、一旦は本気で《 ん~ 結婚するかな 》と思った女は Perú 人だったくらい、ラテンアメリカ諸国のこととなると、かなり贔屓目に考える癖があると自分では思うのだが、それでも、それを聞いて、《 あぁ、なるほどね 》と 思った。

 

 日本とラテンアメリカの国と米国に住んでみて感じたことであるが、私の個人的な感覚でいうと、

 

  日本 と ラテンアメリカの国々 との間の差に比べれば、

  日本 と 米国 との間の差なんて、ほんの僅か、

   《 生まれてすぐ別々の家庭で育てられた

     二卵性双生児の違い 》

  くらいの差に過ぎない

 

という感じである。

 

 私が子供頃は、TVのニュース番組で、国際人ぶった偉そうな解説を言う人は、大体、元フルブライト留学生で、米国帰りだった。

 日本と米国を知っていた。

 日本と米国だけを知っていた。

 日本と米国だけしか知らなかった。

 それでいて、彼らは、

  「俺様は、お前らと違って、

   全世界中のことを知っているんだぜ」

とでも言いたけな態度をして、国際問題を解説していた。

 

 今になって、私は思うのだが、

日本と米国しか知らなかった者たちは、

日本と米国の間の僅かな違いにはよく気がついたが、

日本と米国の間の多くの共通点には気がつかなかったのだろう。

 それで、日本と米国を知って、まるで世界の両極端を知っているかのようなつもりでいたのだと思う。

 国連加盟国190弱(当時)ある内の、GNP世界第1位の国と同第3位の国を知っていただというのに。

 (当時、GNP世界第2位はソ連、実態はかなり怪しいと言われていた。)

 (また当時、国の経済規模を測るのに GDP の代わりに GNPを用いた。)

 

 いわば、

  米国と日本だけを知っている程度で、

  世界中を判ったかのようなつもりでいる

というのは、

  渋谷センター街 と 新宿アルタ前 を知っているだけで、

  日本中を知っているつもりでる

ようなものだと思う。