『故郷の絆』 の 正体

金、金、金だ!


『純朴な田舎の人々』 なんて幻想だ、そんな人達は居ない。

フクシマを見れば、地方自治と呼ばれているものの正体が歴然とする。


ボスザル連合による地域支配だ。

自由にモノは言えず、発言すれば『ムラ八分』と言う『伝統的イジメ』が公然と行われる。

目先の利益に、狡賢く飛びついて、右往左往する欲得の群れだ。

生贄になるのは、最も弱い者、子供達だ。

他人の顔色を伺っている大人ではない。



巨大な原発利権の下っ端を自ら任じ、自分で立つ自信のない情けない連中だ。

原発利権は、その弱さにつけ込んでいる。


議論も論理も無い多数決暴力に、地方議会の承認と言う名を付け、原発を再稼動させたい国。

それにビビッて、国に号令を出させたい立地自治体。

再稼動の号令を、レッド・ボタンを 誰が押すかをもめている。



実に下らない。

が、それで再稼動の手続きは完了し、原発が再稼動を始める。

夏に間に合うかどうかは、問題では無い。

原発利権にとって、脱原発で、原発施設が一挙に不良資産になる事が帳簿上困るだけだ。



再稼動は、脱原発の運動のあり方も、又、問うている。

再稼動は、脱原発の運動にとって、将にシビア・アクシデントだ!

当然予想して、対応策を講じていたと言えるだろうか?



デモやパフォーマンス、署名・手紙・FAX等の手段は、 
確かに一般国民に問題の存在を知らせるには、一定の役割を果たしただろう。

だが、善男善女たる一般国民に訴えるに効果のあるやり方が、
金の亡者・原発利権に有効であったかどうかは、はなはだ疑わしい!

人を見てモノを言わねばならない。
通じもしないのに、自分に出来る事をやっていても、何も変えられない。



仏陀は、天国があるとも地獄があるとも言わなかった。
彼が言ったのは、真実を見極め、必要なモノだけで暮らすという八正道の実践だ。

事実は、たとえ自分に都合が悪くとも、受け止めねばならない。
余計なモノを足すと、それがウソになる。
しかし、真実とは今見えている部分だけではない、それは論理的に考えて補わねばならない。

生活は、必要なモノだけで行えと彼は言う。
仏教における盗みとは、他人のモノを取る事ではなく、余計なモノを持つこと即ち盗みだ。
だから、托鉢の僧に喜捨する際に頭を下げる。盗みの罪から救われるのだから。

では、不足する場合はどうか?
それで我慢しろ、諦めろとは、仏陀は言っていないのだ。
努力して、工夫して、不足は補えと言っている。
足らないものを放置するのは、怠慢でしかない。

これ等を実現する為には、冷静であれと仏陀は言っている。
更に、常に行動を見直して、反省し、修正せよと言っているのだ。
八正道とは、宗教と言うより、一般的な行動の指針ではないだろうか。



自分に出来る事をすると言う事は、受け入れ易い。
何故なら、努力しないで済むからだ。

だが、それは必要を満たす事とは、本質的に違う。
必要とは、それが無ければ、成立しないものの事だ。
必要な事がなされていないのに、放置しておいて、事が成る訳が無い。


脱原発は、どうだろう?
再稼動がされても、 運動の戦術が何も変わらないとしたら、それは明らかにおかしい。


経済大国・日本の大人として、子供にも出来るパフォーマンスやお手紙ではなく、
出来る事、やらねばならない事がある、それが経済戦略だ。


脱原発に、多くのビジネスマンが、関わる事が重要だ。



今、原発の廃止が緊急を要するのは、日本が火山列島の地震国であり、地震や津波には人間サイドの事情は一切通じない所から来ている。

しかし、脱原発の動きを阻むのは、自然ではなく人間サイドの理由によるのだ。

それも極一部で利益を独占する原発利権による経済的事由が、最も大きい。

更に、20世紀のポケベルが携帯から更にスマホに進化する技術の急激な進歩が、
新たな産業の芽を幾つも生み出しているのに、その進展を、古い原子式湯沸し機がはばんでいる。

これでは、日本に未来はない。

原発にしがみつく、ゾンビ爺共を一掃して、新たな日本を創造しよう。