#がん治療
ステージ4のがんを抱える緩和ケア医・山崎章郎さんの試みと「死後のビジョン」とは?/読売新聞

●'23開始、食事療法と少量抗がん剤併用の臨床試験中
●試験第一弾結果→7人中3人は抗がん剤使用の標準治療と遜色無し
●「死を全ての終わりと捉える必要はない」 他

 

東京の緩和ケア医・山崎章郎さん(77)は、ステージ4の大腸がんと闘いながら、低副作用の抗がん剤と食事療法を組み合わせた臨床試験に取り組んでいる。標準治療の副作用で離脱した患者のために、負担が少なく安全な治療法を模索。第1弾の試験では一定の効果が確認され、現在第2弾を進行中。死を次の世界への通過点と考え、患者と「亡くなった後の世界」について語り合っている。

 

山崎先生は、死んでからの次の世界を「あるべき」とお考えです。

私も私なりに「あるべき」と考えているところがあり、あわててこちらの記事を取り上げさせていただきました。

 

病気や治療について、よく素人哲学的に考えをめぐらすのですが、決まって「命って何なんだ」という課題にぶつかります。

 

自分の人生、自分の命。

一般常識、或いはあるべき価値観として、人生や命はまるで、自分が所有してどうにでもなるようなもののように捉えてしまうものです。

しかし、命というものは、自分で獲得したものではないはずですし、どうにもコントロール出来ないものでもあります。

 

主体的な決断をもって「オギャー」と生まれてきた人なんていません。

ということは、親から与えられたものなのでしょうか。

そういう”表現”は出来ると思います。

精子と卵子の結合による化学反応は、お父さんとお母さんによって行われるものだからです。

 

しかし、その親でさえも命は与えられることでしか得られなかったのですから、命は親が与えるものだと表現出来ても、それは核心ではないと思います。

お父さんもお母さんも、言わば命を生じさせるシステム上の動きを行ってくれたわけです。そういう意味では、両親への感謝は人として当然です。ただし、そのシステムそのもの、つまり命を生じさせる仕組みについては、両親もやはり、利用者とか参加者の領域であります。

 

そもそも命って、そんなただの化学反応の結果なんでしょうか。

この人間の体に宿っている超精巧な体の仕組みや、まだ未知の部分が数多くあるという脳などの機能、そして命そのものは「親が与えてくれた」で済む話なのでしょうか。

 

一時、機械式の腕時計に凝った事があり、時計師になろうかと思ったほどですが、あの複雑な時計は、何か材料らしきものを集めて数万年間かきまぜ続ければ出来るものだとは思いません。人は、時計以上に精巧で多岐に渡る機能を持った者です。

 

私はここに、未知なるものを感じずにはいられません。

今のこの世界での価値観や次元とはまた違う、何かアウタースペースのようなものが存在していても不思議ではないと思っています。

 

少なくとも、自分の命というものは、私の所有物などではなく、自分以外の何らかの意図・必然・経緯などはともかく、自分ではないものの関与によることだけは認めなくてはならないと考えています。

 

そして、その命が終わることが死ということになるのですが、本当にそれが終わりなのかというと、そんなもんは誰にもわかっているものはないと思っているのです。

もちろん、1+1=2という算数のような、この世の中をずっと定義するものの下においては、死が全ての終わりと言えるでしょうが、それは定義上の終わりなのだと考えるわけです。

その定義では、わかっていないことがまだまだあるんです。そのうちの一つは命だと、こういう理屈、というか思考です。

 

何やらうさんくさい話になってきましたが、「死は終わり、全部一貫の終わり、それでいい」とクールに言えるならそれはそれでいいのかも知れません。

でもそれって、冒頭に申し上げた「命は自分の所有」という考え方から来ているものですよね。そういう定義の話に過ぎないんじゃないですか、とも。

 

私は、もしかすると命の所有権は自身にあるのかもなとは思いますが、その命の”起源”が自分自身ではないことだけは確かですから、その自分以外の何等かによる”アウタースペース”が存在している可能性もまた認めたいと思うのです。これが私流の「あるべき」論です。