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【抜粋】市川真由美さん(無国籍の人を支援する会/54歳)
33歳の「子宮頚がん」から始まって「うつ病」「腸閉塞」「リンパ浮腫」といろいろあって、一番最近は2019年の「乳がん」です。その間には出産があり流産もあり、42歳のときには余命宣告もありました。それから12年たった今も生きていますけどね(笑い)。

子宮頚がんがわかったのは、2人目の子を妊娠して最初の検診を受けたときでした。先生には「初期だからすぐに子宮頚部の円錐切除をすれば大丈夫」と言われたんですけど、手術の準備段階で切迫流産をしかけまして、がんより出産を優先したんです。なんとか10カ月目で無事に産んでから、1カ月後に円錐切除手術を受けました。日帰りでしたし、胸に赤ちゃんを抱っこしたままの簡単な手術でした。

9年後にそれが再発するんですけれど、その間にうつ病を発症して、脱毛で頭の左半分がつるつるになりました。人の顔が全部目玉に見えて、手が震え、口も震えて、頭の中にずっと“もや”がかかっているようでつらくてつらくて……。

余命宣告を受けたのは、うつ病が治って上の子が大学に入学した42歳のときでした。3人目の子を流産してしまい、その後すぐに子宮頚がんの再発がわかって手術をすると、「だいぶ進行している」とのことで転院を勧められ、そこで「今年いっぱい持つかな」と告げられました。

この年は本当に大変で、じつは夫もその頃、彼の父との関係でノイローゼになって2年寝込んでいたんです。ですから手術までの間に遠くに住んでいる私の弟に、もしものときのお葬式の手配や小学3年生だった下の子(女子)のことなどをお願いして、生命保険のお金を計算したりしました。

転院先で、子宮と周囲のリンパ節を神経ごとごっそり取る9時間半に及ぶ大手術を受けました。それによって排泄のための神経を切ってしまったので、排尿も排便もわからなくなりました。4時間ごとに尿道に管を入れられるし、排便は下剤で出す。ものすごくショックでした。「こんな体になっても生きなきゃダメなの?」と思いました。何があっても前に進む努力はしてきたのに、このときばかりは毎日、病室で泣いていました。

そんなある日、下の子の目の前でジャーッとオシッコが漏れてしまったんです。言葉にならないほど恥ずかしくて悲しかった。でもそのとき、下の子が「汚い」でも「やだー」でもなく、「お母さん、かわいそう」と言ったのを聞いて、頑張る気持ちになれたのです。あれが立ち直るきっかけになりました。

市川真由美(いちかわ・まゆみ) 1967年、奈良県在住。母親の自殺や虐待などつらい幼少期を経て結婚し、長男長女に恵まれる。2010年に景品玩具を販売する「いち屋」を立ち上げ、3年後に法人化した。従業員のマイナンバーがなかったことをきっかけにNPO法人「無戸籍の人を支援する会」を設立。全国から舞い込む相談に親身になって対応し、住民票や戸籍の取得に尽力。奈良佐保短期大学学食「鹿野園」の運営・調理も行っている。