相方をひっぱたいて笑いを取る錦鯉のCM
叩かなければ笑い取れないのか、芸人の“どつき芸”、もう終わりにしないか
「表現の自由」うんぬんの問題ではない、社会的悪影響が大きすぎる
2024.1.12(金)
子どもたちに大ウケした錦鯉
「こぉ~んにちは~」
お笑い芸人「錦鯉」の2人が舞台に登場するやいなや、ボケ役の長谷川雅紀が中腰になって大きく両手を広げて客席に向かって叫ぶ。これだけで客席から大きな歓声が上がるのだから掴みとしては非常に「おいしい」のだろう。
そして長谷川が叫び終わるや否や、まるで中年サラリーマンのような紺色のスーツ姿のツッコミ・渡辺隆が「うるせ~えな」とか「こんばんはだよ」と言いながら長谷川の後頭部をピシャリと何回も叩く。これも錦鯉の定番だ。
長谷川はいつも白いスーツに黒いシャツ、白いネクタイの舞台衣装で、剃り上げたスキンヘッドにぎょろりとした大きな目は一目見て忘れられない強い印象を与える。世が世なら「反社」のようないで立ちだが、両手を広げて腰を下げて叫ぶその姿は微塵も怖そうなイメージを与えないのだから、これは稀有なキャラクターと評価すべきなのであろう。
北海道は札幌で生まれ育った長谷川は1971年生まれで、7歳年下の東京出身の渡辺隆とコンビを組んだのは2012年4月のこと。札幌の高校を卒業した長谷川は1994年に養成所として新設された札幌吉本の第一期生となる。ちなみに同期には「タカアンドトシ」がいる。
一方のツッコミの渡辺は東京の吉本養成所で笑いを学んだが、芽が出ることはなく、渡辺もアルバイトで生計を立てていた。
長谷川は地元の北海道で「のりのりまさのり」の名でピン芸人としてレポーターの仕事もこなしていたが、その後、渡辺と「錦鯉」を結成。M-1では16年と19年に準決勝に進出し、20年には念願の決勝に出場するも優勝はできず、翌21年の決勝で見事に17代目王者に輝いた。その後の活躍はご存知の通りで、テレビで目にしない日はないというほどの売れっ子となった。下積み時代が長かったタレントのブレイクは、世のおじさんたちに勇気と希望を与えてくれた。
だが冒頭に書いたような錦鯉の“芸風”に対し、困惑している人も一定数いる。都内の幼稚園の40代の保母さんが言う。
幼稚園の先生が「錦鯉」のブレイクに困惑のワケ
「錦鯉の人気は幼稚園に通う年齢の子どもたちには絶対なものがあります。長谷川さんの容姿がウケているんでしょうが、舞台に出てくるなり、隣の相方が長谷川さんの後頭部をぴしゃりと叩くシーンに困っています。子どもがそれを真似して仲間の頭を叩くからです。
子どもは叩くときも加減をしないで、叩かれた子が泣き出すことも珍しくありまません。コンプライアンスの厳しくなっている時代に、テレビ局があのような“暴力”を垂れ流しているのは理解ができません。キャラが立っているのですから叩かなくとも錦鯉の人気が落ちるということはないと思うんですが……」
都内の小学校に勤務する30代の女性教員も同じような意見を持っているという。
「私自身は錦鯉の漫才が取り立てて好きというワケではないのですが、学校では低学年の生徒たちに絶大な人気があると思います。ボケ役の長谷川さんが分かり易いキャラであるというのが人気の素だと思いますが、長谷川さんが何かを言うたびに『そんなことねえよ』とツッコミ役が後頭部をピシャリと叩くのは生理的に受け入れられません。すぐに叩くというか、なんか反射的に叩いているのに嫌悪感すら抱いてしまいます」
どつき漫才の系譜
ボケに対して相方が叩いてつっこむ漫才のスタイルはだいぶ以前からあるが、代表格と言えば正司敏江・玲児の「どつき漫才」だろう。舞台でお互いが罵って叩きあうのが彼らの芸風だった。
夫婦漫才というスタイルは以前からあったが、玲児が敏江の顔をぴしゃりと叩いたり、敏江が着物の裾をはだけさせながら玲児に飛び蹴りしたりという夫婦間での強めのツッコミの応酬というのはほかに例がなく、一定の人気があった。ただ筆者は正直、このスタイルには見るに堪えない思いを抱えていた。
正司敏江・玲児は1969年に上方漫才大賞新人賞を受賞しているが、当時から「あれは芸ではない」と批判する先輩芸人の声も少なくなかったという。後に2人は離婚するが、その後もコンビで舞台に立った。舞台上で“元夫婦”のドツキ漫才を見るのは忍びなかった。
このように昭和の演芸・テレビの世界ではドツキ、叩きは珍しくなかった。
叩くための小道具として厚紙を蛇腹状に折った“ハリセン”を使うこともあった。叩くと「パーン」と大きな音がするが、叩かれたほうはそれほど痛くないらしい。これを広めたのはチャンバラトリオであった。
漫才ではないが、和田アキ子も1973年から始まった日本テレビの「金曜10時!うわさのチャンネル!!」で、ハリセンを使ってせんだみつおやザ・デストロイヤーをバシバシと叩いたことで大いにウケ、「ゴッド姉ちゃん」というアダ名で呼ばれることになった。
だが、これらはいずれも昭和の時代だから許された面がある。コンプライアンスうんぬんが厳しく言われる、こうした芸風は時代に合わなくなってきているのではないか。
令和の時代にも根強い人気の「どつき芸」
錦鯉の人気が出る前に“叩く漫才”で目立っていたのは「カミナリ」だろう。茨城県出身の幼馴染、ツッコミの石田たくみとボケの竹内まなぶが11年に結成し、まなぶのボケに対し、「おめえ、○○だな~」とたくみがまなぶの坊主頭を平手で思いきり叩くというのが彼らの芸風である。
M-1では16年と17年に決勝進出をするものの、それぞれ7位と9位に終わってしまった。その後もM-1に挑戦しているが、決勝には進めていない。
「カミナリ」は漫才好感度ナンバーワンの「サンドイッチマン」に憧れて同じ事務所に入ったが、ドツキ漫才の芸風はサンドイッチマンとは遠くかけ離れたものだ。
M-1の決勝でも審査員の上沼恵美子から「漫才が出来ているから無理にどつかなくてもいいんじゃないですか?」と指摘されたこともある。これは極めて真っ当な批評というべきだろう。どつくことで安易に笑いを取りに行ってしまっているのである。
また錦鯉の長谷川と同期だった「タカアンドトシ」も頻繁に頭を叩く芸風だ。ボケのタカに対してトシが「欧米か」でツッコみ、タカの頭を叩く。これは「欧米」だけでなく「○○か」というツッコミにも広げることができる持ちネタとなっているので、演じやすいのだろうが、その度にトシがタカの頭を引っぱたく。逆にタカがトシの頭を引っぱたくパターンもある。
タカトシも高いレベルの話術を持っているのだから、相方を叩かなくとも笑いが取れるはずなのに、それが出来ていないのは、「相方を叩けば笑いが取れる」という発想が芸人としての本能に刷り込まれてしまっているのかもしれない。
他にも「叩く漫才コンビ」としては00年結成の「オードリー」もいる。ボケの春日俊彰とツッコミの若林正恭は、日大二中・高の同級生コンビ。出番が来て若林が舞台に登場しているのに春日は胸を張って悠々と舞台に出てくるとか、若林がとうとうとネタを振っているのに対し春日がその会話に絡んでいかないといった独特の芸風で人気を集めるようになった。
アメリカンフットボールをやっていた2人だが、筋肉芸人と称されるほど体格が良い春日に対し、若林はかなり小柄。そのため若林が春日を叩いても春日は痛がる様子を微塵もみせない。そこで笑いが取れるようになっていた。
M-1では、08年に準決勝で敗退するも敗者復活枠で決勝に進み、準優勝を果たしている。しかし、最近は漫才を披露することは少なくなり、どつく芸風がどうなっているのかは不明である。
ネタ見せ時間の短縮も芸人が“どつき芸”に走る要因か
どつき漫才、叩く漫才についてスポーツ紙の芸能担当デスクが解説する。
「漫才界では相方をどつくスタイルがひとつの定番としてありました。大御所だった横山やすし・西川きよしも、ネタによってはツッコミのきよしがボケのやすしに対して手を出すことがありましたし、視力の弱いやすしのメガネをきよしが外して、やすしが慌てて『メガネ、メガネ…』といってメガネを探す、というのも定番のネタでした。
また多くの若手芸人が憧れるダウンタウンも、頻繁ではないですが、浜田雅功が松本人志の頭を引っぱたいていますし、それで笑いが取れたのも事実としてあるわけです」
だが昭和の時代ならまだ分からないでもないが、ニュース番組でも戦争や災害による凄惨な被害の映像の放送を控え、タバコのCMも流さなくなったこの時代に、相方の頭や体をバチンバチンと叩くお笑いが増えているように見えるのはなぜか。
「それは漫才をする時間が短くなったこととも関係があるのではないでしょうか。昔はテレビで漫才を披露するときでも一組につき10分近くの持ち時間があることが珍しくありませんでした。だから演者は丁寧に布石を敷き、そこからオチにもっていくことができました。しかし今は一組ごとにせいぜい3、4分しか持ち時間がないので、漫才は当然早口になり、手っ取り早く笑いをとるためにどついてしまう傾向が強くなったように感じます。
これは番組を制作する側にも責任があます。じっくり漫才を楽しみたい者をスポイルしているということでもあります。また養成所でどつくように指導している『先生』がいるのも一つの要因です。もう時代が変わっていて、世間は叩くことに対して批判的になっていることを理解していないとしか思えません」
“どつき芸”は青少年の暴力に対する心理的ハードル下げていないか
漫才やバラエティー番組におけるどつくような芸風に関しては22年4月に放送倫理・番組向上機構(BPO)の青少年委員会において、〈「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」に関する見解〉を発表している。少々長いがそれを抜粋してみる。
<ここ数年間、「出演者の心身に加えられる暴力」を演出内容とするバラエティー番組に関して、当委員会に寄せられる「いじめを助長する」「不快に感じる」という趣旨の視聴者意見は減少していない。
また、近時の中高生モニターからも、「本当に苦しそうな様子をスタジオで笑っていることが不快」「出演者たちが自分たちの身内でパワハラ的なことを楽しんでいるように見える」など、不快感を示す意見が一定数寄せられている。
他方において視聴者からは、これまでにもバラエティー番組に対してBPOが見解等を表明することにより「テレビがつまらなくなる」「家庭の教育の問題」というような趣旨の意見、また当委員会が「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」について審議を開始したことに対して、「BPOの規制により番組の多様性を失う」「表現の自由の範囲内の内容だ」「いじめは家庭のしつけの問題」などの意見も寄せられている。
あらためてBPOは、放送における表現の自由を実質的に確保するとともに、青少年の健やかな成長と発達にも資することを目的として、放送界が自ら設置した第三者機関であることを確認したい。
今なおテレビが公共性を有し放送されることは、権威を伴って視聴者に受け容れられているといってよい社会状況のなかで、暴力シーンや痛みを伴うことを笑いの対象とする演出について番組制作者に引き続いて検討を要請するために、この見解を示すことにした>
このBPOの見解のなかでも「表現の自由」が尊重されることは認めている。また「映画やドラマから暴力的シーンをなくせ」という声は世間の多数派ではないだろう。
しかし、笑いをとる目的で、しかも頻繁にテレビに登場するタレントが、相方を叩くという行為は、「表現の自由」の問題として論じるべきではないのではないか。バチンと相手を叩き、ガハハと笑いが起きる。これは青少年たちの間で暴力に向かうハードルを下げることになりかねない。であれば、それはすなわち、いじめを助長することにもなるだろう。そんな社会を望んでいる者はいまい。
お笑い番組を制作する側、そして演じる側もこのことを肝に命じる時期なのではなかろうか。
つづき↓
横山やすしの教えを理解できなかった「松本人志」
「笑いのつぼ」を勘違いした「いじめ芸」の終焉
2024.1.15(月)
私はタレントのスキャンダルを書きたてたいわけではなく、このような一種の社会的な「脱臼」を期に、日頃見慣れて感覚がマヒしている、実は異常な状態に、警鐘を鳴らすことを一番大切に思っています。
1月12日付JBpress記事「叩かなければ笑い取れないのか、芸人の“どつき芸”、もう終わりにしないか」は、放送・構成作家の方が書かれた原稿とのことで、私の視点と一致する面がいくつもあるように思われました。
お笑いコンビ「錦鯉」というものをそもそもよく知らない私は、剃り上げたアタマをポンと叩く「芸」が幼稚園児にバカ受けして困る・・・という、その「芸」自体を見たことがないのですが、「どつき」に注目して幼稚な笑いに疑義を呈する姿勢は大いに共鳴しました。
さらに放送倫理・番組向上機構(BPO)による〈「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」に関する見解〉(2022年4月)の引用も、重要な点を衝いていると思います。
BPOの見解を一部、再引用してみましょう。
「本当に苦しそうな様子をスタジオで笑っていることが不快」「出演者たちが自分たちの身内でパワハラ的なことを楽しんでいるように見える」など、不快感を示す意見が一定数寄せられている。
「今なおテレビが公共性を有し放送されることは、権威を伴って視聴者に受け容れられているといってよい社会状況のなかで、暴力シーンや痛みを伴うことを笑いの対象とする演出について番組制作者に引き続いて検討を要請するために、この見解を示すことにした」
しかし「暴力はいけないから、そういう表現はやめよう」という、小学校の学級委員、優等生的なリーダーシップで「表現の自由」が何とかなるような世界ではありません。
「どつき」ないしは「いじめ」が視聴率を上昇させ続けている限り、数字がすべての商売ですから、懲りずに「どつく」「いじめる」で、見かけ上の業績を取り繕う松本人志のような商法は根絶できません。
今回は、上方演芸の原点にさかのぼって「正しいドツキ」あるいは表現の自由に照らして「悪くない暴力表現」の意味合いを考えて見たいと思います。
「横山やすし」が松本人志に教えたこと
1982年、亡くなった横山やすしが司会を務めていた『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日系)に『ライト兄弟』という古い芸名で、松本人志と浜田雅功が出演した回がありました。
そこで披瀝された演目は「家庭内暴力」を扱うもので、「子供」が「親なんかあまやかしといたらあかんぞ」と、子供の目線で親への暴力を肯定するボケを松本がかますというものでした。
当時高校生だった私は「ザ・テレビ演芸」が好きで、よく見ていましたが、横山やすしの芸談はなかなかスジが通っていて、感心させられることが多かった。
「ライト兄弟」の場合も典型的で、終了後、横山やすしは「あのな、漫才師なんやから、何喋ってもええねんけどな、笑いの中には『良質な笑い』と『悪質な笑い』がある。で、あんたら2人は悪質な笑いや」と全否定してしまいます。
「それと、出てきてね、テレビで言うような漫才とちゃうねん」
「例えばやな、おとうさん、けなしたりとかな」
「自分らは新しいネタやっとると思うとるねんやろけど、こんなんは正味イモのネタや」
とケチョンケチョン、実に見ていて溜飲が下がりました。
「笑い」とりわけ「ボケ」には「価値の転倒」がしばしば伴いますが、その「転倒」を松本人志は勘違いしているわけです。
松本人志は、自分が「オモロい」とか「ムカつく」とか感じたものに脊髄反射的に罵声を浴びせる。
⇒それを取り巻き、特にティーンなど精神年齢がまだ低い幼稚なファンが考えなしに「笑う」。
⇒それで「笑いが取れた」と思い込み、自分には才能があると信じ込む。
こういう悪循環をデビューから最後まで繰り返すことになりますが、「ダウンタウン」という芸名をつける以前の段階で、横山やすしは正確に病状を指摘しているわけです。
でも、それから42年間、松本人志本人はキャリアが終わるまで勘違いに気が付かなかった。自分には芸も何もなく、単にタブー近くの話題に触れると客が沸くのを才能と思い違いしていた。
それだけのことに過ぎません。このタレントに経済効果以外、何か「才能」があると判断する根拠を私は見出すことができません。
「売れてナンボ」の世界です。
そして、かなりマズいものだが一時期売れた。それを「芸能界の大御所」扱いして利権を守ろうとしたプロダクションや代理店、局との共犯関係が、勘違いを「覚めない夢」として42年も永続させてしまった。
それと、関西の演芸で歴史的に用いられ、洗練されてきた「ドツキ」「はりたおし」とは全く違うものです。というより、ほぼ性格が正反対のものです。
今回は「どつき漫才」の常識の源流探訪として、きれいにお目に掛けましょう。
ラジオ放送開始と「しゃべくり漫才」の誕生
日本でラジオ放送が始まったのは1925年、大正14年のことなので、今年で正味100年が経過したことになります。
そしてこの「ラジオ放送」とともに誕生したのが大阪の「しゃべくり漫才」という芸でした。
吉本興業のホームページなどには「しゃべくり漫才」は「エンタツ・アチャコという天才が創始」などと書いてありますが、完全な間違い、大嘘でしかありません。
横山エンタツ(1896-1971)と花菱アチャコ(1897-1974)が、喜劇一座のやりとりを抜き出して会話型の雑談芸を試みた初期の芸人であったことは間違いありません。
エンタツもアチャコも喜劇の出身で、伝統的な「萬歳」の伝承者ではありません。
ラジオというメディアが誕生し、そこで人を飽きさせずにスピーカーの前に釘付けにするコンテンツとして、この時期新たに発明されたのが「しゃべくり漫才」です。
その実は秋田實(1905-77)など、数名の仕掛け人が開発した、マスメディアのニーズに応える新しいエンタテインメントというのが実態でした。
ラジオ向けの新芸「しゃべくり漫才」のなかにも、実は「ドツキ」は出てきます。それは、ボケの言う可笑しな話に、突っ込みが「エエかげんに、シナサイ!」と、胸を手の平や甲ではたく程度のものに過ぎません。
というのも、ラジオは声だけですから、派手に動いても聴取者にビジュアルは伝わりません。寄席芸では身振り手振りもウケますが、ラジオ向けに漫才作家が書く台本は、もっぱら滑稽な笑いだけで人気を得るように構成されている。
その典型として「夢路いとし・喜味こいし」(1937ー2003)通称「いとこい」師匠のしゃべくりを挙げると、典型的と思います。
親代々の芸人である夢路いとし(1925-2003)、喜味こいし(1927ー2011)兄弟の漫才は、人をけなすとか、身体の特徴をあげつらって笑いものにするとか、バカにするとかいったことが一切ありません。
それから、「性加害」どころか、シモネタを扱うことも嫌いました。
横山やすしが「ライト兄弟」こと、まだ10代の松本や浜田に教えた「良質な笑い」のケジメというのは、「いとこい」の漫才が一線を引いた「こういう笑いは良くない、人を傷つける」という芸人のモラル、いわば話芸の「魂」をいったものだと思います。
というのは「西川きよし・横山やすし」の漫才、通称「やすきよ」漫才もまた、時代はテレビが主流でしたからアクションは伴ったものの、「人を傷つける」とか「シモネタ」を極力排した。
のちのち「西川きよし」が参議院議員を務められる程度に、清潔で気持ちのいい舞台だったからです。
そして、こうした「しゃべくり」の「漫才」ではない、古くから伝承されてきた「萬歳」という別の技芸、このなかに相手を「ハリ倒す」笑いの原形が受け継がれていた。
そして「いとこい」「やすきよ」以来の大阪漫才の職人気質に照らすなら、この「ハリ倒し」をポルノ化したものが、ダウンタウンの「芸」として、変に財貨を生んでしまったものの実態だったと、指摘する必要があるでしょう。
萬歳と漫才:張り扇からハリセンへ
「萬歳」とは「太夫」と「才蔵」と呼ばれる2人が1組になって正月などおめでたい席に歌と踊りを披露する伝統芸です。
多くの場合「太夫」は扇子を、また「才蔵」は必ず「小鼓」を持ち、太夫が扇を手に祝詞を読むのを才蔵がチャカポコチャカポコとツヅミを打ちながらはやかすのが基本の芸風。
古くは奈良時代の「万歳楽」までつながるという話もありますが、なにせ証拠が残っていないので、起源はよく分かりません。
ですが現在でも「三河萬歳」や「尾張萬歳」などの伝承は各地に残っており、伝統の片鱗は知ることができます。
扇子をもって「太夫」が真面目なことをいうと、ツヅミを持った「才蔵」が可笑しなことを言ってはぐらかす・・・。
今日でいう「ボケ」の原形。
これに対して「太夫」が、手にした扇で「才蔵」の頭をピシャリと叩いて「エエかげんにシナサイ!」でオチが着く。
このような元来の牧歌的な萬歳にご興味の方は、砂川捨丸(1890-1971)中村春代(1897-1975)(「捨丸・春代」)の動画などをご覧いただくとよいでしょう。
上のリンクでは約10分の高座でまず最初の4割、4分20秒周辺で「胸へのドツキ」が見られます。
次いで4分50秒周辺、真ん中あたりで、頭を素手で叩くところまでエスカレートし、佳境に入った7分18秒あたりと8分近辺の2回、扇子で派手に捨丸師匠のおでこを春代師がハリ倒して観客が沸く。
「序・破・急」という能狂言の基本に則して、客の笑いを取っているのがはっきりと分かります。こういう「ドツキ」は否定されるようなものではなく、狂言同様、長らく伝えられてしかるべきものでしょう。
ここで使われている「張り扇」は、伝統的にお能の稽古などで拍子をとるのに見台などを叩くものです。
こんなもので相手の頭など叩いてはいけないわけですが、そのお行儀の悪いことをやって、笑いを取っている。
とりわけ捨丸・春代の場合、女性の春代師が男の捨丸師匠をぶっ叩くという、当時の男性優位だった日本社会の日常を転倒するところに爽やかな「笑い」があった。
文化人類学者の山口昌男さんは「祝祭的転倒」として、迂遠な日常の価値をひっくり返すところに笑いがあふれる芸のダイナミクスを鮮やかに分析しています。まさにその典型になっているわけです。
大阪「笑いの殿堂」第一回に「叩かれて 鼓とともに70年」として捨丸・春代が顕彰されているのは、理由のないことではないのです。
日頃強そうにしている奴が、やり込められてあたふたしたりするから「面白い」。
西川きよし・横山やすしの漫才でも、日頃威勢のいい「やっさん」が眼鏡を取り上げられて「あ、メガネ、メガネ」とやり込められるから「面白い」。
強そうにしている奴がやられるから、見ている側も安心して笑えた。
その典型といえるのが「張り扇」を工夫した「ハリセン」を活用した「チャンバラトリオ」(1963-2015)の芸でしょう。
そもそも4人なのに「トリオ」というくらいに破天荒な芸ですが、もともとは東映京都撮影所の殺陣師(たてし:斬られ役)が結成したグループです。
序盤からプロの剣劇で十二分にカッコイイ姿を見せておいて、いいところでリーダー自らハリセンでぶっ叩かれ、派手に痛がって見せる・・・。
といっても「いい音がして、かつ痛くない」のが「良いハリセン」とされ、あくまで「序盤で強い奴が、あとになってやられる」というのは、日本大衆技芸の「お約束事」になっています。
それが、日本の多くのシリーズ時代劇(「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」など枚挙のいとまがない)から優雅で日本的なプロレスリング(古くは「力道山・豊登vsシャープ兄弟」「ジャイアント馬場vsアブドーラ・ザ・ブッチャー」などなど)でもお決まりの「勧善懲悪」で、強弱のバランスが逆転してシーソーが人揺れして「ども・ありがとうございましたー」となる。
そういう意味では、こうした「ドツキ」の根は深く、おそらく「日本大衆芸能」がある限り、なくなることはないでしょう。
強者が弱者をいじめる暴力は「笑い」か?
さて、10代の松本人志たちが横山やすし師匠に「あんたら2人は悪質な笑いや」と言ったのは、どんなものだったか?
文字面だけ見ると「立場が弱い子供」が「お父さんお母さん」などの「親」に逆襲するという「日常価値の転換」のようにも見えるプロットではあります。
ところが実際に扱っているのは、体力に勝るティーンの子供たちが、40代、50代のお父さんやお母さんに奮う、新聞で扱われていた「家庭内暴力」社会問題そのものの構図です。
それが日常なのだから、ちっとも価値など転倒しない。
松本人志は、お父さんの藁人形の鼻に釘を打ち付けて苦しめるといった内容を語り、観客席からは、声の高い「幼い笑い」が返ってくる。
大人は反応しない。単にイヤな顔をして黙っていたはずで、それを「ちっともウケん客やな~」程度にしか松本人志の了見では、受け止められなかったらしい。
実際、録画でもスタジオの客席は全然沸かない。
当時17歳だった私がテレビで見ていても「やだな」と思う程度に「家庭内暴力ポルノ」、最悪な画面でした。
むしろ「親なんかつけあがらせとったらあかんで」などと息巻いているアホなティーンを地でいく松本人志、浜田雅功を、体力では劣るだろうオッサンの「横山やすし」がこき下ろし、『ザ・テレビ演芸』という番組の全体として、まことに爽やかな話芸を等身大で成立させ、エンドマークとなった。
横山やすしの横綱相撲で、これをもって「番組の司会進行」の鑑というべきでしょう。
しかし、1980~90年代のテレビは「強いものが弱いものをいじめる」式の「芸」が市民権を得ていた面がありました。
典型的なのは「熱湯コマーシャル」など、本当に体に熱さや痛みを感じる局面に、いつも「やられ役」が定番化した。
「いじられキャラ」「リアクション芸人」などと呼ばれるタレントが登場、定着していきます。
具体名を挙げるなら「だちょう倶楽部」の故・上島竜平(1961-2022)、出川哲朗(1964-)といった人々がお茶の間に定着するのと前後して「弱い者がひどい目に遭う」シーンが画面でありふれていったように思います。
しかし「捨丸・春代」の舞台ですら、いちど刺激に慣れてしまうと、同じものでは満足しなくなるのが人間というもの。
「芸」というものは、時間を追うごとに刺激の強度を強くしないとウケない、エスカレートの宿命を負っています。
「弱い者」が「強い者」に反撃するのは爽快ですが、「強い者」が「弱い者」をいじめるのも、慣れてくれば刺激が少なくなり、エスカレートしていくのは人間社会必定の理というべきでしょう。
そしてこの時期、1980年代中半~90年代にかけて、エスカレートしたイジメ芸を工夫し、暴力的なシゲキに慣れてしまった日本社会で「悪質な笑い(横山やすし)」で視聴率を取っていったのが、最上級生の「ダウンタウン」と、彼らに組み敷かれる、例えば「いじられキャラ」だった山崎邦正(1968-) 後輩芸人たちという「いじめ芸ポルノ」の構図が成立していったわけです。
たまたまこの時期、彼らと同世代でテレビの仕事に携わり、古き良き日本の話芸が好きだった私には、この手の「テレビのポルノ化」は「世も末」としか言いようがないとの思いでした。
ポルノというのは、つまりこういうことです。
仮に「男女の情事現場」とか、「局部の近接映像」といったものがテレビでオンエアされたら、人はどう反応するか?
「なになに?」と見にくる人は少なくないかと思います。と同時に、何割かの人は顔をしかめ、いやな気分になって去って行く。
それでも「視聴率」は取れ、お金は儲かる。
また、コアなファンは、それに味を占めてついて行くようになる。これが「ポルノ」の特徴です。
エロビデオやら、かつての週刊誌の袋とじグラビアやらと同様、「儲かることは分かっているけれど、分別があればやらない荒稼ぎ」を「ポルノ」と呼んでいるわけです。
ところが、「松本人志」は正面からこの「ポルノ」を見せびらかすことで視聴率を稼いだ。
単に「分別がない」だけの状態を「才能」と勘違いして「失われた30年」の病んだ社会病理に訴えた。
そして、インターネットの登場で沈没しつつあるテレビメディア、つまり沈没途中の船の中だけで通用する「はだかの王様」という権力者に祭り上げられた。
ホテルなどで「ハダカの王様」だったかどうかはよく知りませんが、何にしろ、いまは事務所や代理店から見限られ、切られつつある。スポンサーが降り始めてしまいましたから。
ということで、この機にぜひ、日本のメディアが成し遂げるべきことは「ドツキ芸」がいかん、ではなく、強いものが弱いものをイジメて、それを見せびらかす、江戸時代の公開処刑「磔獄門(はりつけごくもん)」同様の「暴力いじめ芸ポルノ」の電波からの追放の方向に、各社広報担当者の意識が向くと、効果的な「ポルノ」の駆逐になるでしょう。
ある種の「芸人」は、もう画面に乗る必要性も十分性もありません。過去の営業の惰性で、お金が回っているだけの悪循環に過ぎず、松本人志と同時に断ち切るチャンスかもしれない。
テレビ欄の「松本人志」をすべて「トミーズ雅」に差し替えるだけでもよほど、気持ちの良いテレビに回復すると思います。少なくとも「松本軍団のいじめショー」は一掃されることになるから。
「強い者」の側に立って一部の「弱い者」がひどい目に遭うのを見て、心密に喜ぶといった状況を「弱い者いじめ」というわけで、これで視聴率が取れてしまった「失われた30年」という時代が、いかに不健康な社会心理で回っていたか、そのことをしっかり見据える必要があると思います。
世の中全体でも「強い者」が無茶苦茶な専横を押し通し、正直者がバカを見るようなことになってはいないか?
若者の「将来就きたい職業」の高位に「ユーチューバー」が来てしまう程度に末期的な社会を作り出してしまったのは、私たち現在の大人自身であることをよく考え、いままさに退場しつつある「松本人志」のようなタレントを持ち上げ回してきた、空疎な経済をよく反省する必要があると思うのです。
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