「避難所ウォ-カー」

「避難所ウォ-カー」

…   東日本大震災・ボランティア活動体験記

「今、私にできること」 に取り組みたい。


けど、「私に何ができるのだろう?」


自問自答しながら過ごした震災後の日々を、今、振り返って・・・。




2011年発生の東日本大震災に際してのボランティア活動の記録を、日付ごとに記録しています。

1年後の日付で掲載しているので、曜日はズレています。

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なんだか最後の最後まで、うまくまとめきれません。


一連の活動を振り返り、もっとこうすればよかった、と感じる場面は多々ありました。

また、活動自体も、もっと積極的に展開し、NPOばりに活動した方がよいのではないか、とか、いやもっと個人的に活動し、避難している方々と個人的な交流をすることこそ意義があるのではないか、とか、その活動形態について考えることもありました。


その中で、活動記録に記したのが、現実に行ってきたことです。


活動から長い時間を経て、ようやく当時のことを客観的に振り返ることができるようになりました。同時に、一年を経た節目の機会に、自分が行ったことを記録として残しておこうと考えました。


当時の手帳やメモを見返して記憶を呼び起こし、できる限り忠実に、各日にあったことを記したつもりですが、忘れて抜け落ちていることや、前後の混同、事実誤認などもあるかと思います。

あくまで一つの活動事例として見ていただき、今後ともボランティア活動などをしてみようという方の参考、というよりも、反面事例とでもしていただければ幸いです。


ときおり思うのは、この災害が多発する島国に住み、いつなんどき災厄に見舞われるかもしれない我々の間には、助け合いの心、助け合いの絆、というものがたしかに存在するし、だからこそこうして、今日まで暮らしてくることができたのだろう、という感慨です。


この国に暮らす一人として、一年前の活動に御協力をいただいた皆様、そして、活動に参加してくださった方々に感謝しながら、この記録を終えることとします。


2012年4月7日、土曜日-



(完)

この起承転結もない「活動記録」を読んでくださった方に、感謝申し上げます。


最後の活動を終えた4月6日以降も、関係機関と連絡を取ったり、御礼をしたり、あるいはスタッフで反省会を設けて話し合ったりと、いくつか実施してきたことはあるのですが、「ウォーキング」活動に関しては、ここまででひと段落ということで、本活動記録も、これをもって終了としたいと思います。


実務的な参考になる記述が少なく、情緒的な記述に流れがちだという指摘があるかもしれません。

たしかにそのとおりなのですが、やはり「ボランティア」とは何かということこそ、筆者が最も考え、伝えたかった点でした。


改めて、整理してみたいと思います。


1.何をしてよいかわからなくても、現場に行ってみると見えるものがあったこと

 物見遊山のようで気が引ける部分もありながら、やはり生の現場を目にできたことで、浮んできた思いがありました。今思えば、「共感」する力だったのかもしれません。止むに止まれぬ思いで、活動を決意することができました。


2.とはいえ、何をしてもよいわけではないということ

 ボランティアという言葉を錦の御旗として、好き勝手を行ってその意義を主張するというのは、やはり控えるべきことだと思いました。思い立ったら即、の行動力も必要かもしれませんが、然るべき機関に承諾を得たうえ、関係団体と調整して活動に当たるのが望ましいのだと思います。


3.同じ思いを感じている多くの人たちがいたこと

 初めて経験する大きな災害の発生に際し、自分も何かがしたい、と感じた人が、本当に多く存在していたことを知りました。自分ではできないことでも、そうした人に助けられ、後押しされ、できた部分が大きかったと感じています。


4.活動開始よりも、止めどきの見極めが難しいこと

 一度始めた活動を、どう終えるかは、本当に悩ましい判断でした。もちろん、被災者への支援活動は一過性のものではなく、今現在もなお求められているものだと思います。その中で、自分だけで背負い込むことなく、できる範囲で息の長い支援に携わることが理想だと考えます。


5.喜んでもらうだけが意義ではないと捉えること

 相手の反応に一喜一憂していては、活動の真意を見失ってしまいがちです。本当に喜んでもらえるのか、とか、役に立っているのか、とかいうこととはまた別に、自分なりの心を示すための活動というものがあってもよいのではないかと思いました。


(つづく)

体育館前に戻り、参加者の方と別れると、ちょうど予定の一時間が経過していた。スタッフとして協力してくれた方々にも、改めて御礼を伝え、解散することにした。


と、SさんやTさんから、「今後についてはどうするのか」という問いがあった。これについては、僕としてもいろいろ思いもあったのだが、自分なりの考えはまとまっていた。


「とりあえず、これでいったん終了としたいと思います。希望者が一人でもいるうちは続けてもいいのかもしれませんけど、実際問題としてニーズは減ってきているようですし、あるいは他の形での支援活動などを考える方が現実的かもしれません」


という答えは、あるいは無責任に聞こえたかもしれない。

しかし、これは偽らざる僕の思いであったし、何よりも、別に僕が音頭を取らなくても、一人ひとりが今後もできることをしていけばよいのだし、僕自身も、何か別の形でできることを考えてみたかったのだ。


そして、また必要になったときには、お互いに声を掛け合えればよいのだ。今回の活動を通じて、数多くの心ある方々と知り合えたことは、僕にとって貴重な経験だった。


皆さん納得してくれたようで、また連絡を取り合うことを約して散会したのだが、その別れ際、Sさんが言った。


「よかったですね。避難している人たちに気持ちが伝えられて」


それを聞いて僕は、ああSさんは前から、僕の気持ちについて本人よりよくわかっていたのかもしれないな、と感じた。あるいは、愚図愚図といつまでも考え込んでいたのは僕だけだったのかもしれない。


もちろん、自己満足のために活動したとか、自分なりに答えを得たから活動を打ち切るとか、そういうことではない。別にこれは、僕の自分探しの活動ではないのだから。

僕は本当に、これからも一個人として、できることに取り組んで行きたいと考えていた。必要に応じて、かといって無理をすることなく、自分なりの形で。


そんなことを考えながら川沿いを歩いていたとき、僕はふと、自分が素手であることに気付いた。

そうか、もう春なんだなあ。初めて体育館に行ったときはまだ寒さも残って、しばらくの間はたしかに手袋をして通っていたのだけれど・・・。

あの大きな災害から、時間だけは、確実に経過しているのだということが実感された。


その意味では、またいつなんどき、何が起こるか分からない。災害に限らず、困ったとき、苦しいとき、今度は僕がお世話になる番かもしれないのだ。

持ちつ持たれつではないが、助け合いの心を持ち、手と手をつなげる気持ちを持ち続けていたい。その気持ちがあれば、少なくとも何かを信じていくことができるのではないか・・・。


改めてそんな風に考えながら、僕は、手袋をしていない自分の手を見つめた。


(活動記録、了)


※「おわりに」は明日につづく

後半は信濃川沿いの遊歩道を歩き、体育館近くまで戻ってきたが、まだ予定の一時間に少し時間が残ったので、参加者とも相談して、文化施設の屋上庭園に上ってみることにした。


それは新潟市立の文化会館の屋上で、自由に出入りできる屋上庭園となっており、僕も実はこれまで行ったことがなかったのだが、詳しいSさんに案内を頼み、スタッフも含め一同で上ってみると、天気がよいので市内が広く一望でき、爽やかな眺めが広がっていた。


「まあ、こんないいところが、近くにあったのね」


と言ったのは、誘われて初めは迷いながら参加してくれていた方で、誘った方が、


「そうでしょ。だから、来てみてよかったでしょ」


と言うのを聞くと、僕も嬉しい気分になった。


ひとしきり庭園内を散策し、では時間ですし、これで戻りますか、と言ったときだった。迷いながら参加してくれた方が、一緒に連れて来たペットの犬を抱き、犬に話しかける格好で、


「楽しかったねえ。ほら、またお願いします、って言いなさい」


と呟くのが聞こえたときは、思わず目頭が熱くなりそうになった。

喜んでもらうために活動したわけではないけれど、それでも、喜んでもらえるのは単純に嬉しい。喜んでもらえるのであれば、もっともっと何かをしたいとさえ思う。


けれど、僕は、これをもって活動に一区切り付けるということに決めていた。


(つづく)

体育館に避難している人たちに参加の呼び掛けをさせてもらうに当たって、僕には考えがあった。

これまでは主に僕一人が、館内で案内をさせてもらっていたのだが、この日は集まったスタッフ全員で、一言ずつ呼び掛けをさせてもらうことにしたのだ。

そう、だってこの活動は、ひとりひとりの思いを伝えるところにこそ真意があるのだから・・・。遅ればせながら気付いたことだった。


館内の人の数は、日に日に減っているように見えた。この日もまた、参加者は集まらないかもしれない。しかし、それならそれでいいのだ。

市役所職員にハンドマイクを借りて、初めに僕が案内を行った。


「ウォーキング活動を呼び掛けている地元在住のボランティアです。今日は天気もよく、絶好の散策日和です。N大学の学生ボランティアの皆さんも来ておりますので、一緒に周辺を歩いてみようという方がいらっしゃいましたら、ぜひお願いいたします」


続けてスタッフ各人が一言ずつ、「みなさん、一緒に出かけませんか」と呼び掛ける。それを聞きながら僕は、もっと早くこうしておけばよかった、と感じていた。


結局、定刻に三名の希望者が集まった。

お一人は以前から見憶えのある女性で、もう一人、あまり気が進まぬ様子の女性を誘ってきてくれた。参加者のいるいないは問題ではないと言いつつも、やはりこうして希望者が集まってくれて、一緒に活動できるのは嬉しかった。

事前にスタッフとは、参加者と世間話などしながら歩きましょう、と打ち合わせており、改めて全員が自己紹介をしたうえで、体育館前から出発した。


この日のコースは、かつて路面電車が走っていた道路沿いから、JRの駅の脇を抜け、信濃川沿いの遊歩道に出るという経路を考えていた。

一部、交通量の多い区間もあったので、参加者の事故などないよう気をつかったが、スタッフ数は十分足りていたので、心配することはなかった。


見れば、学生ボランティアも、年配の参加者と積極的に話しているようだった。とかく、仲間内でしかコミュニケーションがとれないなどと揶揄されがちな世代だが、今回の参加者はまったくそんなことはなく、僕は密かに感心していた。

むしろ、僕などの方が、よほどコミュニケーション不全だったのかもしれない。


三十分ほど歩いて遊歩道に達したところで、ベンチがあったので小休止した。よく晴れて暖かく、川沿いの微風が心地良い日だった。

参加者の一人が桜の樹に目を留め、「もうすぐ咲くかしらね」と訊くので、「そろそろですね」と答えた。

「今年はこのまま、新潟で花見かしらね」との言葉の裏には、万感の思いがあると察せられたが、それは必ずしも悲壮な諦観ばかりではなく、すべてを受け入れる強ささえもがあるように感じられた。


(つづく)