615年 (推古23年)
聖徳太子によって建立されたと伝えられ、当初は『法隆寺』と言いました
歴代天皇の信仰も厚く、花園天皇 (在位1308~18年) から寺紋として菊花紋を賜わりました
1333年 (元弘3年/正慶2年)
後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏らに攻められた六波羅探題 北方の大将 北条仲時は、持明院統の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴い東国へ落ち伸びようとしました
その途中、行く手を佐々木導誉が差し向けたとも言われる野伏に塞がれた為、やむなく蓮華寺へ至り、天皇と上皇の玉輩を蓮華寺に置いた後に、本堂前で一族郎党432名と伴に自刃したと言います
北条仲時、享年28歳でした
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自刃した者たちが流した血は、川のようになって流れたと伝えられます
この史実は『増鏡』『梅松論』『太平記』に詳しく記載されています
天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻されました
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本堂には『阿弥陀如来像』『釈迦如来像』が祀られています
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北条仲時以下432名の紀念碑
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蓮華寺の北条仲時以下432名墓所
時の住職、同阿上人が自刃した彼らを憐れみ法名を与え過去帳に登載しました
それが有名な『陸波羅南北過去帳』です
その時、48日間にわたって常行三昧の念仏で供養したと言われています
寺内にある主従の墓とされる五輪塔群は近代になってから整備されたもので、それとは別に、向かいの六波羅山と呼ばれる所の麓に五輪塔があります
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一向俊聖上人の墓所
1284年(弘安7年)
当地の地頭・鎌刃城主の土肥元頼が雷で焼失した寺を一向俊聖を招いて再建し蓮華寺としました
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大谷吉継の首塚
関ヶ原の合戦 (1600年) で、西軍 石田方の参謀として奮迅の働きをした大谷吉継 (1559~1600年) の首塚と伝えられる石塔です
関ヶ原での小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が敵に首を渡さないように湯浅五助の介錯で自刃します
甥の僧 祐玄が首を錦の袋に入れて敦賀へ逃亡する途中に、この地に埋め隠したと言われています
今も地元の人々により、大切に守られ供養されています
長浜市余呉町小谷 (おおたに) は、吉継の出生地だと伝わっています