本日の浄化は『東京』です
日本橋に処刑場があったなんて知りませんでした
大安楽寺
江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固刑に類する処罰が原則として存在しなかった為、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所と言うより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設でした
こちらには、高野長英や吉田松陰らも収容されていました
1857年、吉田松陰は安政の大獄の際に刑死しています
現在、向かい側の十思公園には『松陰先生終焉之地』の碑が設置されています
宝安稲荷大明神と弁財天
延命地蔵尊
御題目供養碑
光明稲荷
周辺は煉塀で囲まれ堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていたそうです
十思公園
松陰先生終焉之地
牢屋敷の石垣
地下から現れた牢屋敷の石垣
牢屋敷の模型
囚人を収容する牢獄は東牢と西牢に分かれていました
身分によって収容される牢獄が異なっていたそうです
牢内は囚人による完全自治制が敷かれており、牢屋役人ですら権限のおよばない世界でした
また、幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれており、平囚人には牢内で体を伸ばす権利すら与えられていなかったそうです
収容者の総数は、300人から400人程度だったと言われています
日本橋
日本橋三越本店
1673年 (延宝元) に、三井高利が創業した『越後屋』がはじまりの百貨店です
屋号は高利の祖父の時代まで『越後守』を名乗る武士であった事から『越後屋』とし、人々からは『越後さんの店』と呼ばれていました
その後、三井家の姓を取った『三井呉服店』となり、1904年『三』と『越』を取って『三越呉服店』となります
そして、現在の『三越』に至ります
日本橋魚市場発祥の地
日本橋
日本橋刑場
女犯の売僧 (女性と情を通じた不道徳な僧) や情死未遂者 (男女の心中未遂者) など色恋沙汰の罪を犯した者が、ここで三日間晒しました
罪人を大道にすわらせ、手を後ろの柱に縛り付けたり、穴晒 (首にカセをはめ首だけ出して箱に入れ、土中に埋める刑) にしたりしました
江戸で一番の繁華街であった日本橋は、晒刑にはうってつけの場所だったようです晒しがあると言えば、野次馬が鈴なりになって見物したのだと言います
また、主人殺しの罪を犯した者は、ここで鋸引 (死刑の一種で罪人の体をノコギリで引く刑罰) の仕置を受けたそうです
現在は整備され、観光クルージングの船着き場になっています
刑場巡りをしたので、神獣さま方や高次元の方々へのご奉納は天丼にしました
ありがとうございました