標高2,800メートルを超えるキーストーンでの3日間の会議は、時差ぼけと高山病に苦しめられた。
頭痛と吐き気に悩まされながら、それでも早朝のアクティビティのヨガには参加した。
「キーストーンの湖畔でヨガ」 その魅惑的な誘い文句に、お気に入りのヨガウエアーを3着もトランクに詰め込んだのだから、動機と眩暈がしようが、何としてでも参加してやるのだ!!!
今になって考えれば、割れるような頭を抱えながら、よくも1時間のレッスンに耐えたものだ。
ようやく、体調が戻ってきた4日目にポートランドに移動。 そこで一泊して翌日の午前中は仕事をこなし、午後の便でサンフランシスコに向かう。
サンフランシスコから羽田への便は2時間も遅れて到着し、おかげで羽田到着予定が24時を過ぎることになる。 ようやく座席につくと、そこはエコノミーの三人掛けの真ん中で最悪。
でも、何でもいい。 これでひとまず仕事から解放されるのだから。
それに、今回の会議には私の新しいボスにあたる人が参加していたが、座席は離れていたのが何よりだ。 飛行機の中でまで気を使いたくない。
窓側の隣は年配の知的な感じの日本人女性。 通路側の隣は20代前半のアメリカ人男性。
二人とも特に問題はなさそう。
離陸前にスチュワーデスが窓側女性に英語で何か話しかけた。 彼女は嬉しそうに荷物をまとめて立ち上がる。 私と隣のアメリカ人男性も席を立ち彼女を通した。
彼女は去り際に私に嬉しそうに英語で言った。 「今日は私のラッキーデーよ、ビジネスにアップグレード出来たの。 あなたにとっても、ラッキーデーね。 2席分使えるでしょう」 日本人だと思っていたので、違和感と愕きと羨ましさが混じり合った複雑な気分になった。
アップグレードの対象は航空会社によって違うらしいが、「身なりがきれいで、おとなしそうな人」も対象の一つという事を聞いたことがある。彼女はそれにピタリとあてはまっていた。
スペースは二人分確保できたけれど、問題は通路側に人がいること。 トイレに行くたびに立ってもらわなければならない。 それを避けるためには、彼がトイレに立った時に私もトイレに行くことと覚悟を決めていた。
離陸してしばらくすると彼は立ち上がった。 まだトイレには行きたく無いけれど、行けるときに行くしかない。 戻ってくる前に私もトイレに向かう。 トイレの前には待っている人はいなかった。 使用中のトイレの扉は間もなく開いた。
が、出てきたのは彼ではなく別の外国人男性だった。 「通路の反対側のトイレにいったのかしら」と考えた。 男女の別がなく狭いトイレには、いつも気が滅入る。
いつものように蓋を閉めてから水を流そうと思う間もなく、シュツ!と大きな音を立てて水は流れた。ふたを閉めると自動で流れる仕組みらしい。 念のため蓋を開けて点検するがきれいになっていた。
席に戻ると、彼は未だ戻っていなかった。5分たっても10分経っても戻ってこない。
さすがに30分が経ったころには、胸騒ぎどころか或る想像で頭がいっぱいになる。
テロリストの文字が頭から離れない。きっと今頃はどこかに潜んでいて犯行のチャンスをうかがっているに違いない。 もう爆弾を仕掛けたかもしれない。 ああ、あたしの人生はここで終わるのだ! どうやってスチュワーデスに伝えようか。 想像をそのまま伝えたら、頭の変な女だと思われかねない。 そうだ、ただトイレから戻ってこないので、どこかのトイレで倒れていないか心配だと伝えよう。
思い切って40分が過ぎたころスチュワーデスの待機しているトイレの裏側に行くと、彼がいた。
窓側の隅で立ったまま、本を読んでいたのだ。 長い脚を折り曲げて小さなシートに座っているよりも立っていた方が楽なのかもしれない。 彼は食事のときは席に戻ってきたが、その他はトイレの裏で本を読んだり軽いストレッチをしたりして過ごしていた。
というわけで、私の両隣は空席の状態が続いた。ラッキーデーに違いない。
二度目にトイレ向かった時に、トイレの手前の席に上司の顔が見えた。目をつぶっていたので会釈もせずに通りすぎた。 前回と同じようにトイレの蓋を閉めて手を洗い扉を開けると、そこに上司が立っていた。 ちょっと気まずいが、軽く会釈をして席に戻る。
三度目にトイレに行き蓋を閉めた時に、あのシュツとう音がしないのに気が付く。
蓋を開けると流れていない。 すると開いた蓋の後ろ脇に「流す」のボタンが見えた。
ボタンを押すとシュツトいう大きな音を立て、勢いよく水が流れた。
そのあと蓋を閉めたが、水は流れない。
ハッ! 二度目にトイレに行き蓋を閉めたときシュツという音はしただろうか?
音はしなかった気がする。なんで蓋を開けて確かめなかったのだろうか?
最初にトイレに行ったときに「蓋を閉めて流れる仕組み」だと思い込んでしまったからだ。
という事は、よりにもよって自分の上司に最も見られたくないものを見られたことになる。
トイレを流し忘れる、ズボラでだらしない女。 レッテルは貼られた。
それでも、蓋を閉めると自動的に流れるという一縷の望みを持ってその後トイレに行ってみるが、
無残。 だいたい「流す」ボタンがあるのに、それを押さずに流れるはずがない。
最初が何かの間違いで流れただけか、無意識のうちに蓋を閉めたと同時に「流す」ボタンを押していたに違いない。
私の人生は終わったと思った。 これからどんなに取り繕っても無駄であろう。
いっそのこと事情を詳しく話してみようか。 そんなことが言えるほど親しくもない。
翌週、会社に戻ると、その上司はどことなく冷たい感じで私を無視している気がした。
ラッキーデイなんかじゃなかった。