ブログネタ:自殺について考える 参加中

以下反転。

気が向いた方だけどうぞ。


はっきりといいましょう。
私も何度か考えたことがあります。

でも、自殺って身勝手だと思います。
「辛くなったから死ぬ。」
その「辛い」あいだにどれだけの人が心配してくれたことか。
相談するだけ相談して、解決しなかったから死ぬ。っていうのはあまりに身勝手です。
相談された相手は自分の無力さを呪うかもしれない。
気づいてあげられなかった周りの人も後悔の念に駆られるかもしれない。
親しい人は何日くらいあなたを思って涙を流すことでしょう。
そうでない人にも迷惑をかけているんだって、気づいてほしい。
自分が死ぬことで自分の死体を見る人が必ずいる。
発見者が第三者の人であってもその姿を見るのはとても怖いことでしょう。
報道関係者が自分の知り合いの家に押しかける可能性もありえる。
第三者には語りたくも無い、「自分」の死を語れと強要される自分の友達家族の気持ち、考えたことありますか。


もちろん、きっかけはいろいろあると思います。必ずしも辛くなったから、というわけではないと思う。
よく言われる「生きる意味が分からない」っていう悩みなんて常に付きまとうものだと思います。
「生きる意味」というのは生きているうちに探すものだと思います。
紆余曲折を繰り返して、死ぬ間際に私はこのために生きてたのか…と実感できればそれでいい、
人に誇るものが生きる意味ではないんじゃないかな、と。
自分の心が求めるものこそ生きる意味で、それはそう簡単には見つからなくって。
簡単に見つかれば苦労はしないだろうし、苦労するから見つかるのだろうし。


人が死ぬということは、その人にかかわった人の周りから消えてしまうということで。
あらゆる生物に与えられた命は心臓の鼓動20億回分。
それを迎える前に自ら命を立つということは何かが変わるかもしれないというきっかけを放棄することでもあり。
早い話が「逃げ」であり。
死んでしまえばそのことに悩まされることは無くって。楽かもしれない。
でもでも、死んでしまったら元も子もないでしょう?
立ち向かって解決すればそこから新たな情熱とか、友情とか、意欲とかが生まれるかもしれないんです。
それに、自分は楽になってもそれは友達や親を傷つけることになる。
自惚れかも知れないけど、自分のことを「すき」でいてくれる人は必ずいるわけです。
「心配させたくなかったから」という言い逃れもありますが、
「何で頼ってくれなかったの」という悲しませ方もあるのです。

でも、その人の苦しみを知らない私が簡単に言ってしまって良いものかどうか分からない。
私がここに書いたことは薄っぺらなただの自殺否定に見えるかもしれない。

なので、死にたいというのなら止めません。

でも、これだけは覚えておいてくださいね。
心臓の拍動回数は20億回。
その残り回数でどれだけのことが出来ますか?
あなたの「周り」には何人の人がいますか?

これで十分でしょう?
私がこの世に踏みとどまっている理由です。