今年ももう師走となりましたね。
仕事が繁忙期に入り
忙しない毎日を過ごしています昇天


更新できずでしたが
続きを……です。



  娘としての想い


母の癌宣告、手術することが決まってから

父も私も当事者の母も分からないことだらけ…

今みたいにスマホで

ちゃちゃっと調べることなんて出来ない時代


医療書を買って読んでみたり

当時私は子育て中でしたので

夜な夜なPCを開き病気を調べてみたり…

調べれば調べる程、不安や落ち込みもあり

もしかしたら癌という病に母を失うかも…

という寂しさや不安も募り

夜中に涙することもありました。


一人娘として結婚して孫を見せられたのは

親孝行のひとつでしょうが

まだまだ孫の成長も見て欲しい

親子で旅行だってしたい

まだまだ娘として

父母にしてあげたいことが沢山あって

それが出来なくなるかも…と思うと

胸がぎゅっ…っとなりましたね


でもっっっっ!

泣いてなんていられないっ!

絶対癌になんて負けない!物申すっていう

闘争心みたいなものが芽生えたのも事実



父は優しく繊細な人なので

父なりに色んな想いを抱いたと思います。

口下手なのもあるので

なかなか自分の想いを吐露することはなく

でもきっと泣いていたと思う

母(妻)や娘の前で涙は見せなかったけれど

当時、単身赴任をしていたので

きっと赴任先の部屋で泣いていたと思います。


父が安心して仕事が出来るように…

母のことは私が支えるよ!



家族で癌に挑む!物申す



チーム家族!そんな感じでした泣き笑い



母はおおらかで明るい人なのでね

癌なんだぁーー!

手術だってーー!

仕事どうしようーー!

みたいな笑笑泣き笑い泣き笑い


でも、母のその明るさに

父も私も助けられたのも事実です

『癌』という家族にとって初めての難題に

前を向いて立ち向かう気持ちになれたのでニコニコ





  手術説明


当初組まれていた手術時期より

少しだけ早く手術することになりました。


それに伴い

当人、家族への手術説明の日取りも

バタバタと組まれました。


⚫︎全身麻酔

⚫︎開腹手術にるなること

⚫︎子宮、卵巣、卵管の全摘

⚫︎リンパ節切除

⚫︎術後は抗がん剤治療(DP療法)


聞き慣れない医療用語が並び

私は必死にメモしていましたね…


開腹してみないとハッキリしたことが

分からない、言えないとのこと

開腹して、摘出等が難しければそのまま

閉じる可能性もあること

その際は治療方針が変わること


入院、手術と色々な話をしていく中で

母がふと「余命は…」みたいなことを

口にしたんですよね


母の主治医が



サムネイル

どの方も説明を聞くまえに
ご自分で沢山色々なことを調べて
来ますが
どうか私達医師の言葉を第一に
聞いて欲しいと思いますし
信じて欲しいです。

私達は病気を治す為に
今できる最善の方法をご説明して
いますし、手術に関しても同じで
今出来る必要な医療です。

現在余命を言えるような
段階ではありません。
僕は治す為に手術をします。


穏やかな先生なのですが

この時は真剣な眼差しでキッパリと…でした



癌🟰死(余命)


どうしてもこのイメージはあるし

考えてもしまうし…

母もねきっと

ついポロっと言ってしまったんだと思います。



ううん。



知りたかったんだと思う。

もし手術が出来なかった時

癌になった自分に残されている時間が

あとどれぐらいなのかを…

自分のことだから

ちゃんと知っておきたかったんだと思う。


でも医師からしたら

まだまだそんな段階ではなく

母、叱られる…みたいな悲しい



この件で

一瞬張り詰めた空気があったけれど

先生を信じよう!と家族としては思えたかな。

母もそうだったと思います。



医師にとっては

沢山いる患者さんの一人。

でも、主治医の先生中心に

看護師さん等も含め

母の為に作られたチームでもあり

お互い信頼し合わないとダメなんだよね…

とも思えたんですよね。


私なりに調べた事を質問として投げかければ

それにきちんと答えてくれる先生でも

ありました。






約20年経った現在も

母の主治医を務めてくれていますニコニコ


母はリンパ切除の後遺症で

リンパ浮腫を発症しているので

弾性ストッキングの着用が必須なので

今も尚、半年に一度

弾性ストッキングを購入する為の『指示書』を

作成してくださいます。


あの頃はまだ

婦人科の中では若手の先生だったかと…

母も先生も歳を重ねましたが

今でもきちんと診てくださることに

家族として感謝しています。