今の通勤読書。

プロダクトデザイナーの柳宗理さんのエッセイを読んでいます。
(1915年生まれで現役デザイナーって凄すぎますね)

多読用のビジネス書ではないので、
1ページ1ページ丁寧に読んでいます。

鍵盤の世界にカムバックしてから数日は、
通勤時に楽譜を見ていましたが、
朝からこれをすると
どうも仕事中にも音楽の事を考えてしまうので、

仕事頭にスイッチ入れて、モチベーションを上げるためにも、
朝はやっぱりちょっとでも、仕事の何かに繋がるような読書が必要なようで。

楽譜を見る事についても、あんまり予習はしないで
鍵盤の前で集中して、なるべく初見などその場ですぐに弾けるようになる練習も兼ねたほうが良いかもしれない。


そういうわけで、まだこちらのエッセイを今も読みかけている途中。

柳さん的デザイン考にいろいろと触れてみたいと思って、読み進めていたのですが…


今日ビックリした事が。

昨日のブログで、映画『ひゃくはち』の事を書きました。

で、一応、タイトルの『ひゃくはち』が具体的に何を指しているのかという事は書かないようにしてはいたのですが、
(注意:今日は書きます)


ひとつは、まぁ、
日本人なら誰でも知っている”除夜の鐘の数”と”人間の煩悩の数”という話。

さらにもうひとつ、
映画の中で「野球ボールの縫い目の数も”108”である」という事が明かされるのですが。

その事も
この映画に関わらず、結構知ってる人は知ってるそうで、
(実際、有名な話?私は映画で初耳)

昔『巨人の星』の中で、星一徹さんのセリフにも野球ボールの縫い目の数が108ある、という話があったようなのですね。
(現48歳の弊社セクスィ部長から聞きました)

しかし、
野球のボールと仏教の教義にある煩悩との間には、直接の関係は無いのです。

野球はアメリカ生まれだし、
煩悩という考えは日本的なものだし。

つまり単なる偶然という事。

つまり、野球ボールと仏とは全く何も繋がらないという事?



ところがところが!


なんというタイミングなのか、
柳宗理さんのエッセイの中で、偶然に今日開いたページの中、
野球ボールについて書かれている1ページを発見。

”新しい工藝・生きている工藝”というテーマの中で、
(1984年~『民藝』という本に連載されていたもののようです)

「民藝論に最もふさわしいものとして、野球のボールを掲げさせていただきます。」
という文章から始まり、

全精神をボールに集中するために応えられるべく、適度な弾性と、少々乱暴に扱ってもびくともしない頑丈さが必要なこと。

種々の球を投げるのに、重要な役目を果たす、真ん中がくびれた革の同形シート二枚。

白の鞣革と、赤い麻糸。

それらの野球ボールの特徴を挙げていきながら、

”用即美”とは正にこのボールのことだと、
おっしゃっている更に続く文章には、

「更に言い換えれば、正に美も醜もない、民藝論で言う、仏の境地にまで達していると言えるでしょう。」

とあります。

ビックリです。

柳さんに言わせれば、
野球のボールは仏の境地なんだそうで。

『ひゃくはち』の煩悩と野球ボールの繋がりを越えて、それは実は仏の域。

最後に、こう書かれてらっしゃいます。

「正しく人の用に供せられるものは、
この世の乱れにもかかわらず、
堂々とその存在に胸を張り、
そしてこの世を浄化してくれる美しさを持っているものと私は信じて疑いません」

柳さんは、ここで煩悩についてはもちろん、
野球ボールの縫い目の数が108だという事についても、一切触れられていないところが尚更に、

このエッセイに偶然辿り着いた事のドキドキ感で今、いっぱいなのです。

野球のボールって、
こんなにも深いとは…!

そして、オマケですが、

ちなみにその野球ボールを包みこみ、受けとめる役割を担います”野球グローブ”については、
奈良県が国内生産での1番大きなシェアを誇ります。

さすが、大仏さまがいらっしゃるだけの事はあります。
(ここまで繋げると強引?笑)