過去にこだわるから今、動けなくなる
心理的に健康な人は、うつ病になるような人は前を見られるのにバックミラーを見て運転しているのはなぜだろうと思っているのです。
「もういい加減にしろよ」と言いたいほど過去を引きずって生きているのは、先に進めないからです。うつ病になるような人はいま何をしていいのかが分かりません。自分は何をしたいのかが分からないということです。心理的に言えば、長いこと安全な場所で自分は何をしたいかを考えてこなかったからでしょう。
危険地帯で生きてきたからです。だからいま先へ進もうとする時に、自分は間違いなくこれをしたという確認がほしいのです。その確認がないと先に進めないのです。自己執着的な納得をしてから先に行くしかないのです。
人の心理的成長を止めるのは「憎しみ」
憎しみを解消する能力とは、生産的に生きる能力である。しかし幼児期に憎しみを持ってしまうと、まだ生産的に生きる能力がついていません。
子供の頃の憎しみは過去にならない
小さい頃に足に怪我をして痛かった記憶があります。ところがそれを母親が傷口を口で吸って薬を塗って治してくれたとします。するとこの「痛み」という体験は、痛くても過去のものとなります。この体験がその子の心を捕らえてしまうということはありません。
そしてこの子はこの体験から生きる知恵を学びます。
しかし、ここで母親が笑って無視したとします。そうなると、この小さい頃の怪我という体験は、心の世界では過去の体験にはならないのです。
肉体的な痛みは過去のものだけれども、憎しみを持ち、それがやがて恨みに成長するでしょう。肉体的な時は過去だけれど、心理的にはその体験はいまなのです。
社会での時は過ぎていくのですが、心の中では時は過ぎていかないのです。そこで過去への執着ということになります。
30年前に土手で母親に捨てられてしまった。その人が10歳の時でした。いまは40歳です。しかしその人の心の中には、その時の恐怖は残っているでしょう。
「もう過ぎたことじやないか」と人は言うかもしれません。「いま生きているのだからそれでいいじゃないか」と人は言います。
しかし心の恐怖は消えない。そしてさらに消えない恐怖の中で10年経ち、50歳の大人になっても、心の底に憎しみを持つでしょう。
その40年前の事件は、捨てられた人にしてみれば心理的には過去の出来事ではないのです。単純な憎しみは消えるかもしれません。
しかし愛されない悲しみや、捨てられる恐怖などと一緒になった憎しみはそう簡単には消えないのです。
他人から見ると、この悲しみや恐怖が分からないのです。だから、「いつまでも過去にこだわって」と言うのです。そしてさらに20年経ち、その人は70歳に。
しかし憎しみは消えないでしょう。人は、「いったい何歳になっているの? もう70歳でしょう」と言うでしょう。しかし憎しみは消えないのです。
人は見える行為のみを見るのです。だから「もう許してあげてもいいんじゃない」と言うでしょう。しかし、本人にしてみればそれは過去の出来事ではないのです。その悲しみや恐怖はいまの悲しみであり、いまの恐怖なのです。
嘆いても現実が解決しないことは自分もわかっている
それにしてもうつ病になるような人は「なぜあきれるほど過去にこだわる」のでしょうか?「過去にこだわる」と言った時に、2つの意味があります。
1つは自分の過去の失敗をいつまでも悔い続けている時、その理由はそのように悔やむことで失敗の免罪を得られると思っているからです。
そしてそのように悔やみ、自分を貴めることで自己の価値を維持し続けようとしているのです。
「過去にこだわる」と言った時のもう1つの意味は、自分が過去に被った被害をいつまでも訴え続けることです。被害を誇張して訴えるのは他の個所でも説明したとろが、憎しみの感情を吐露しているのです。
被害者意識に立ってものをいう人が日本人には多数います。
それは日本人には心の底に憎しみがあることを示している。それと同時に、彼らは愛を求めているからです。
被害者意識に立ってものをいう人は解決を考えていない。のです。
自分を認めてくれ、愛してくれ、分かってくれと叫んでいるのです。
人がいると妙にはしゃぐ子供がいます。そうした子供は淋しいのです。周囲の人の注目を求めています。被害を誇張して訴える大人の心理はこれと同じです。
過去にこだわる理由は、過去に被った被害の苦しみをいつまでも訴え続けていれば、いまの苦しみは消えるからです。人がいつもいつも嘆いているのは、注目を求めることでいまの苦しみを消すためです。
嘆いていればその瞬間、少しは心理的に楽になります。注目を求めている瞬間、少しは心理的に楽になります。
「もし私の親に少しでも愛する能力があったら、私はここまで不幸にはならなかったのに」と嘆いていることで、かろうじて現実にとどまっていられるのです。自分の不幸をそのように嘆くことで慰めているのです。「私の親兄弟があそこまで冷酷でずるくなければ、私の人生はここまで惨めでなかったのに」と避けようのない過去を嘆くことで、いまの不幸に耐えようとしているのです。
嘆き続けることでガスを抜いています。自分の憎しみの感情を喋っています。
話しても話しても憎しみの感情が晴れません。傷が癒されない。そこでいつまでも嘆き続ける。過去を嘆いていても、いまの現実の問題を解決することにはならないことは、嘆いている本人も周知のとおりです。しかし変えることのできない過去を嘆くことで、いま心理的に楽になるから嘆くのです。
不幸な人の思考は悪循環する
嘆いている人は、過去ばかりでなくとにかく現実を見たくないのです。そして事実・現実を見ようとしません。たとえば粉塵がすごい。ガンになるかもしれない。その時に、「昔はもつと酷かつた」とか、「昔は良かった」と言っています。そう言っているだけで引っ越しの準備はません。そのためのエネルギーありません。過去にこだわるのはいまの苦しみを楽にするためです。
そして逆にいまが苦しいから過去を抜け出せないでいるのです。人はいまが不幸だから過去に捕らわれて生きてしまうのです。
過去に捕らわれて生きるから、いまを生きられないでいるのです。いまを生きられないからいまが不幸になります。悪循環です。
不幸な人はどうしても、やり残したことに執着してしまいます。やり残したことに執着するからいまが不幸です。
いまが不幸だから、やり残したことに執着するという悪循環です。それを、心理的に病んでいるは自分のいまの環境を嘆き過去にこだわっている人に、「何でいつまでも過去にこだわっているのか? 」と疑問を投げかけます。
「過去は嘆いても変わらない」と言うでしょう。そして「いまを生きよ」と言うでしょう。心理的に健康な人はいまが幸せだから、不幸な過去から抜け出せています。
心理的に健康な人はいまが幸せだからいまを生きられるし、いまを生きられるからいまが幸せになるのです。
まさに、これが好循環です。や心理的に病んでいる人はいまが不幸だから、いつまでも不幸な過去にこだわってしまいます。
不幸な過去からどうしても抜け出せないでいます。自分はいまが幸せであり、嘆いている相手はいまが不幸だという、その違いを考えないで、過去にこだわって生きている人を責めるのは酷です。前に進めない人を責めるのは酷です。
「孤独な決断」
「私は神の子だ」という啓示