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@ 政庁跡正面 後背は四王寺山

~ 大宰府政庁の創設と大宰府の防衛 ~

 大宰府の成立については、様々な学説等がありますが、文献において「大宰」すなわち「大宰府」が登場するのは、『日本書紀』推古17年(609年)の筑紫大宰です。この筑紫大宰は、外国使節の饗応のための施設であり、当初は博多湾沿岸におかれていたと考えられています。
 663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本軍は、唐・新羅連合軍の侵攻を想定し、辺境防備のために、各地に防人や烽を置き、多くの軍事施設を造りました。特に大宰府は、その周囲に水城(小水城)・大野城・基肄城を百済人技術者の指導の元に築き、現在の春日市から太宰府市を経て、筑紫野市・佐賀県三養基郡基山町にいたる周囲約8kmにも及ぶ防衛ラインを築きあげました。一説には自然地形を巧みに取り入れた「羅城」とも考えられています。
 この「羅城」を設定する要因として、すでにこの時期に「大宰府」が、防衛ラインの中に設置されていた可能性が高いと思われますが、発掘調査の成果から、明確にこの時期に存在した証拠はありません。

(九州国立博物館資料より)

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@ 政庁跡と宝満山

~ 大宰府政庁の構造と変遷 ~
 大宰府政庁跡は、発掘調査によりⅢ期に時期区分されています。7世紀の後半に始まり、12世紀のうちには廃絶したと考えられています。

【Ⅰ期】(7世紀後半~8世紀初頭)

  大宰府政庁Ⅰ期に属する建物は、現在地表に見えているような礎石建物ではなく、全て掘立柱の瓦を葺かない建物でした。発掘調査の面積の制約やいくつかの段階が設定できることから、建物群の明確な配列は不明ですが、南北あるいは東西に軸をあわせたような規則正しい配置の建物が多いことから、何らかの官衙であったことはまず間違いありません。

【Ⅱ期】(8世紀初頭~10世紀前半)

  8世紀初頭になると、政庁の様相は一変します。建物は後殿の一部を除いて全て礎石建物となり、総瓦葺きで、おそらく朱色の塗料を塗った建築材を使用する朝堂院形式のものとなります。正殿・脇殿・南門・中門・回廊などを伴った政庁は、まさに「西都大宰府」としての風格を備えることとなったことでしょう。

【Ⅲ期】(10世紀後半~12世紀前半)
 
 天慶4年(941年)、大宰府は伊予の海賊、藤原純友により、焼き討ちにあいます。「藤原純友の乱(天慶の乱)」です。この戦火によりⅡ期の建物は焼け落ち、その焼土が混じった整地層の上にⅢ期の政庁が復興されたのでした。

  Ⅲ期は、Ⅱ期の建物は位置を踏襲していますが、後殿地区の建物が楼風の総柱建物に変わるなど、さらに壮麗な建物が建てられたことでしょう。
  しかし、12世紀前半にはこのⅢ期の政庁の建物も周辺の官衙とともに廃絶し、その後再建されることはありませんでした。

(九州国立博物館資料より)

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@ 政庁跡碑と四王寺山

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@ 基壇と後背の天拝山

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@ 基壇と後背の四王寺山

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@ 礎石と碑と宝満山

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@ 政庁跡と天拝山

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