承元(じょうげん)の法難は、
歴史学者、本郷和人の『軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のリアル』(朝日新書、2018年)によると、
「法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた」もの。
つまり、怨恨のからんだリンチ事件の側面が強かったわけですが、
「寝取られ」事件の首謀者、安楽房遵西等ら4人の弟子の連帯責任をとらされる形で、一門の責任者たる法然も、一番弟子だった親鸞も、僧侶の身分を剥奪されてしまいました。
つまり、承元(じょうげん)の法難は、ことの発端に、宗教弾圧の意味合いはありませんでしたが、法難(=宗教弾圧)に発展したとものと言えるでしょうか。
背後で、どんな勢力が暗躍したのか・・・(念仏の新興勢力をいぶかっていた、比叡山や奈良仏教などの擁護者?)、それを考えるのは、歴史のロマンだと思いますね。
事件後、法然は「藤井元彦」、親鸞は、「藤井善信(もとざね)」という俗名を与えられた上、土佐(高知県)と越後(新潟県)へ流罪されたため、法然と親鸞は、今生の別れを告げることになりました。
命令を下した後鳥羽上皇の気持ちを想像すると、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」(いったん嫌いになると、その人に関するすべてのことが憎く思える)だったに違いありません。このことわざは、江戸時代の「寺請制度」に関連して成立したものだそうで、NNマイナビニュース(2022/06/28)の記事(「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の意味とは? 類語や由来、その心理も紹介)によると、
さかのぼること、1612年。棄教したキリシタンに「寺請証文」を書かせたことからはじまったとされる「寺請制度」は、毎年、幕府や諸藩に、各寺院から檀家名簿の提出を求めるものに整備され、寺院は、幕藩支配体制に従属することになりました。
(以上、引用、ここまで)
寺院側にすると、この「檀家制度」で経営が安定し、羽振りの良い僧侶の暮らし向きは、民衆から批判的にみられることもあったでしょう。
さて、精神科的に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」を考えると、
坊主に嫌な目にあわされたひと(例えば、後鳥羽上皇)は、坊主を思い出すアイテム(例えば、袈裟)を観ただけで、怒りがフラッシュバックする。
つらい体験(=トラウマ体験)を思い出させるアイテムのことを「リマインダー」と言うんですが、後鳥羽上皇にとっては、法然一門が「寝取られ」の衝撃を思い出させるリマインダーになってしまったのかもしれません。
だとすれば、上皇が、法然一門を、都から追い出そうとしたのも、無理からぬこと。リマインダーの念仏を聞くたび、イライラしてたんじゃ、たまったものじゃありませんからねえ。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」の反対の意味をもつことわざに、「罪を憎んで人を憎まず」(罪は憎むべきだが、その罪を犯した人は憎んではいけない)があるそうです。
儒教の祖である「孔子」の言葉に由来するそうで、実行できれば立派ですが、簡単なことではありません。
そういう境地に至れないのは、人間ですし、まあ、当たり前。自分の場合、やっぱり、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」のほうに共感をおぼえますしね