こういう、政治家の素早い対応を目の当たりして、

 

なにを考えたかというと、

 

変わらない、変わらないという日本の社会も、事件が起これば変われるんじゃないかっていう軽い絶望です。

 

 

たった5ヶ月で法律ができてしまう。

 

この法律は、実効性がないという批判もありますが、それにしても、たった5ヶ月で法律ができてしまいました。

 

 

「やる気を出せばできるんじゃないか」

 

ウラを返せば、政治家のやる気がないから、なにも変わらないんじゃないか。変わらなかったんじゃないか。

 

 

Yに限らず、カルト教団に苦しめられてきたひとは、過去に何万人も何十万人もいたんでしょう。

 

 

オウムの事件が起きたときだって、深刻な社会問題だと指摘してきた専門家はたくさんいたと思います。

 

被害者救済法なんて、もっと早い時期につくればよかったんです。そうしたら今回のような銃撃事件は起こらなかったかもしれない。

 

問題に気づいたひとが、社会に向けて声をあげても、スルーしてきたのはいったい誰なんでしょうか。

 

国民(=世論)といえば聞こえはよいですが、

 

法の審議や制定で国民の利益を守る仕事をしているひとたち(政治家、そして、官僚)の責任が大きいんじゃないでしょうか。

 

 

わずか5ヶ月で成立してしまった新法のことを思えば思うほど、日本の社会って、主体的に変わらない。自分から主体的に変わろうとしないことに、自分の場合、頼りなさを通り越して、あきらめを感じてしまうわけなんです。

 

 

わたしは、精神科医療にかかわっているんですが、

 

昔から、なにか変えたいと思ったら、「外圧」か「事件」に頼るしかないんだよって、先輩たちから聞かされてきました。最近は、エビデンスを出せば、たしょうは議論の余地が生まれる気もしていますが、事件みたいな即効性はないんですね。問題が浮き彫りにされて、ではどうすればいいかって段階に来ても、物事はほぼほぼ動かないんです。変わらないんです。

 

 

今回の銃撃事件って、

 

仕返しする・・・・。

 

そういう位置づけのものじゃないでしょうか。いわば、野蛮な行動化なんです。

 

 

ところが、仕返しが、Yの期せずして、世直しになってしまい、

 

事件を起こせば世の中が変わる。

 

そういう出来事になってしまいました。

 

 

自分の場合、被害者救済新法が成立したんだからよかった。そんな思いはみじんもありません。

 

 

そんなプロセスで何かが変わっても喜べるんでしょうか。

 

事件が起きるまで主体的に変わらなかった、いわば行き詰まった社会に暮らすわたしたちって、みじめだと思います。希望より絶望がただよっている。

 

ほんと、

 

生きる気力をそがれるような、つまらない社会だと思えてしまう。

 

 

くどくいいますと、

 

「外圧」でしか変われないんなら、外国の一部になったほうがましなのでは?

 

「事件」でしか変われないんなら、事件を起こせないひとは、だまっているしかないのか?

 

そんな気持ちにおそわれるんです。

 

そういう空気感って、自分だけが抱いているものじゃないとも思うんですが・・・