3/25 ハードロック ハードウェアストア通信 2017 その参 日曜日の事・・・③ | Everything Works If I Let It !

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HR/HMとGUITARと車を愛する金物屋の日記

昨年からダラダラと書き続け、

果たしていつ、どうやって

        終わらせたらいいんだろう・・・

と悩んでいる今日の1曲

カモン・フィール・ザ・ノイズ/クワイエット・ライオット編でありますが、

 

そんな悩みから逃避するように、

 

ここ数回に渡って

3月12日に開催された富士スピードウェイ50周年記念イベント

富士ワンダーランドフェス行ってきたよ編

                            お送りしております。


さて、前回からの続きです・・・


ケバブを食って

満足したワタクシ

         いよいよ本来の目的に向かって動き出しました・・・

 

 

レジェンドドライバーのトークショー

レーシングマシンの展示

        数々の出店ブース等、

            見るトコロ沢山あります・・・

 

 

それに、

パドックやピットガレージでは

レーシングドライバーに

          会えちゃうかもしれません・・・

 

 

うわ〜、

今日、全部回り切れるかなあ・・・



とにかく

本日のメインプログラムである

 レーシングマシンのデモランが始まるに、

       ササッと一回りしてみましょう・・・

時間も合わないし、

時間もないので、

ステージイベントは

     この際、無視!



後々ゆっくり見るとして、

ピットビル屋上と1階ピットガレージにある展示車両を、

                              とりあえずパパッと見て回ります

 

レーシングカー大好きなワタクシにとって

              こういう機会は至福の時でございます         
 

 

 

そんな中、
ピットガレージの床に並べて展示されていた

一組のレーシングスーツとヘルメットに、

         目が釘付けになりました・・・

それらにはA.Hagiwaraの文字・・・

それは萩原光さんというレーシングドライバーが、

                                 かつて着用していた物・・・
              
その萩原光さん、

実は1986年4月事故死してしまったんです・・・

マシンのテスト中クラッシュ

                           そして炎上・・・
             
残念ながら、

そのまま帰らぬ人となってしまいました・・・
             
実はワタクシ

萩原さんと ちょこっとだけ親交があったんです・・・

 

1980年代は今と違い、

  いちファン、ましてやお子ちゃまが

   レーシングドライバーと会うなんてコトは、

                      そりゃそりゃ大変な時代でございましたから、

直接お会いする機会は

            残念ながらなかったんですが、

亡くなる年まで手紙年賀状やり取りをしてました・・・


始まりは1980年

ワタクシ中学1年生。(中2になる年でしたが、まだ中1だった頃・・・)

キッカケは、

萩原さんが

ツーリングカーレースから

F3というフォーミュラレースにステップアップしたのを機に、

オートスポーツというレース雑誌で

萩原光のレーシングダイアリー

                             という連載コラムが始まった事・・・
 この号かどうかは定かではないんですが・・・


今みたいに

個人情報うんぬん言わないユルユルの時代

                                                 だったから、

萩原クンに

      応援の手紙を出そう!

                                 みたいな、そんな感じ

萩原さんの自宅の住所堂々と載ってまして。

 

 

萩原さんはまだ無名の若手だったけど、

          中坊のワタクシ

                 なんか惹かれるモノがあったんでしょう・・・

 

 

手紙を出しまして。

 

 

そしたら 

なんと!返事が来たんですよ

ドライブしていた

マーチ793というマシンの写真が印刷されたハガキに、

直筆返事サイン

         書かれていて!!

 

プロのレーサーから返事をもらえるなんて思ってなかった中坊のワタクシ、

そりゃあもう 

飛び上がる程 嬉しかったですよ

学校に持ってって

   自慢しまくりましたよ

 

けど、自分の周りに、

自分のようにレースにのめり込んでるヤツなんていなかったし、

ちょっとは知ってても そんな無名の若手レーサーまで知ってるヤツなんて

いるハズもありません・・・
 

 

残念ですが

誰ひとり、知る人はいませんでした・・・

 

でも、

他人が知ってようが知らなかろうが、

自分にとって

    憧れのプロレーサーからの

               サイン入りの手紙なんて、

何物にも代えられない宝物です・・・

 

今でも大切にとってありますよ、ほら!!

 



消印昭和55年4月22日・・・

 

萩原さんは

翌年 

  全日本F3ランキング2位となり、

83年には

   日本のトップカテゴリーである

                    富士グラチャンと全日本F2にステップアップ

85年には日本一速い男と言われた星野一義さんと組んで

                 世界選手権優勝

(ま、悪天候でワールドクラスの強豪が棄権しちゃったからだけど)と、

              日本のトップドライバーへの道を順調に進み、

86年には

 日産ワークスドライバーとして、

     6月のル・マン24時間レースに参戦が決まった矢先、

           先述の事故で亡くなってしまいました・・・

 

たられば、ですが、

もしかしたらF1にも乗っていたかもしれません・・・

 

 

スポンサーが、

    後にF1チームを所有した、

                  あのレイトンハウスでしたから・・・
                  
 

もし生きていれば60歳
レジェンド ドライバーの一人として、

間違なく この記念イベントに招待されていたでしょう・・・

 

そして

若かりし日に駆った

アドバン東名サニーB11024号車

     ドライブしていたに違いありません・・・

萩原光さんの遺品を前に、

そんな事を思って

ちょっぴりおセンチになっちゃいましたが、

オープニングセレモニーに続いて

デモランプログラム開始アナウンスされ、

レーシングマシンのエキゾーストノート響き渡ると、

否が応でも興奮が押さえられない

           ワタクシなのでありました・・・

                               

つづく・・・