昨夜も点けている電気ストーブを消す、点けるで母とひと悶着あった。

 

夜11時台頃から、電気ストーブの前でゴソゴソ動かれるので深夜1時ぐらい

 

まで消す、点けるの攻防があり、私も耐えられずに眠ってしまった。

 

午前4時過ぎに室内の寒さで飛び起きてしまう。

 

攻防の結果、母が見事に勝利を収めたことが朝になって判った。

 

憎たらしいことに、勝利した本人は寒がりもせずに眠ったままでいる。

 

 

 

最近は、医学に関する本を読み漁っている。

 

面白いことに、自分の意識で動かせるものとそうでないものを動物的・植物的

 

と呼んで便宜的に分けてみると、人体には植物的と呼べる生体活動の範囲が

 

圧倒的に大きく、それらが直接生体の維持に直結するものばかりだという事が

 

改めて分かった。

 

あと、もう1つ分かったことは、最新の医学研究では30年前に通用していた説が

 

正しくないという事が分かったということだ。それは医薬品と試験装置の格段な

 

進歩によるものだと云われている。

 

つまり、科学っていつまでも更新され続けていくという顔を持っていることだ。

 

 

 

さて、そこまで理解を改めてみると、専門家でもない自分でも複雑怪奇な人体という

 

機構の中に、『自分』という精神および意識が存在していて、その精神・意識の状態

 

と植物的な人体の働きが密接につながっているという示唆をどう捉えたらいいのか

 

戸惑うのだが、『なんでそうなってるの?』という疑問以前に『そうで在るって不思議!』

 

という驚きの方が圧倒的なのは、我ながら苦笑してしまう。

 

医学の本を読み漁っていながら、人体の本質って何?を探しているという訳だ。

 

 

 

 

もっと噛み砕いて言ってみよう。

 

何が不思議かって、2つは少なくとも在る。

 

1つは、人体という複雑怪奇な機構をもつ生命体の中に『自分』という精神・意識

 

が存在しているのに、精神・意識を司る神経は在っても精神・意識自体は人体の

 

どこにも存在していないことが1つ。

 

もう1つは、1つの人体に1つの精神・意識が存在しているが、1つの人体に複数

 

の精神・意識が存在するイレギュラーも存在するのに、それについての結論が

 

未だに出ていないことだ。イレギュラーを生む原因を個別の人体に求めるのが

 

科学者なのに、その疑問に対する答えが未だ見つかっていないのだ。

 

この2つだけでも、驚くに充分値する。

 

 

 

 

精神・意識の側からのみ、『自分』という存在を見ることが出来る。

 

その事が充分に解っていれば、『自分』から見た自分の人体というものは、『自分』

 

の化身ではなくて、『自分』を閉じ込めておくための牢屋みたいなものだと思う。

 

そう思う理由は、人体の植物的な働きが『自分』という精神・意識に影響を及ぼす

 

からだ。身体に精神が振り回されているという側面を指して、牢屋と呼んでみる。

 

あくまでも便宜的にではあるが、牢屋と思えば死とはそこからの解放なんじゃない

 

のかって思えて愉快な気分になれると気付いた。

 

 

 

自分の人体があって、『自分』という精神・意識がある。

 

自分の人体をいくら解剖したとしても、『自分』という精神・意識は物質としては何処にも

 

存在すらしていない。何処にも存在していないと医学の本を読み漁って解ったとしても、

 

その、何処にも存在していないはずの『自分』は自分の人体を有している。

 

この事自体、一体何がどうなっているのか? 自分の身体に『自分』が宿って同時に

 

存在するって一体これはどういうコトか? この事を不思議と驚けば、もっと知りたくも

 

なってくる。だから、考えてみることが益々やめられなくなってしまっているのだ。

 

人間という存在、1人1人が不思議な神秘と謎の存在と観れば、世の中はもっと

 

善いものへと変わらざるを得ないはずなんだけどな。残念な人類。