朝の新幹線。仕事の合間に、昨日拝読したアーサー(友人、日本人)の文章を思い出した。
尖閣諸島の問題に端を発した、中国国内のデモと暴動。色々な人が色々な事を言っている。この文章もその色々にひとつ追加するだけだが、思うところをまとめてみたい。
自分自身の思想傾向は、あくまでドメスティックだが政治的には右寄り、経済的には中道左派くらいになるのだろう。まあ、よくいるタイプというのが自己分析である。この左右の分類も実に怪しいものだが。
世界一安全な日本国内おいて、対立を煽るようなセリフを撒き散らしがちなのだが、なぜそのように考え、発言してしまうのかを考えてみる。「よくいるタイプの」分析であるから、ある程度普遍性があることが言えるかもしれぬ。
まずは我々の世代(1975年生まれ)の受けてきた教育(家庭・学校・社会)から自分の中に形成された近現代の日本の物語を考えてみる。いわゆる「歴史」ではない。ストーリーだ。
明治維新の引き金を引いたペリー来航から祖父たちが戦った第二次世界大戦まで、日本は機械文明として立ち遅れた(日本的)封建主義社会から、西洋列強国に伍す、ただそれだけのために全力を尽くした。
憲法の制定をはじめとする近代法の整備、不平等条約の解消、富国強兵に集約される産業の近代化と軍備拡張、そして終わりつつあった帝国主義への遅れた参加。栄光のシンボルとしての日露戦争の勝利。
日本の権益を守るための日華事変(日中戦争)や日韓併合。台頭する非白人国家への恐怖としての国際社会での孤立。真珠湾攻撃、絶望的な攻撃としての特攻隊、米国の原爆投下によるカタストロフと敗戦。
東京裁判史観を受け入れ、「軍部が悪かった」ことにしてGHQ支配の下に始まった焼け野原からの戦後復興、「押し付けられた」憲法の受け入れ、日米安保への安全保障と奇跡的な経済成長。ソニー・本田・松下の立志伝、トヨタの栄光、バブルの狂乱と崩壊。
長期停滞から、少子化・デフレ・新興国の台頭による相対的地位の低下。
そして現在の自意識としてはこうだ。「我々はひたすら我慢している。、相手のことを考えて、世界に言いたい事も言わずに。そして我々の歴史観は概ね中立で大きく間違っていない。」
ざっとこんなところだろうか。これが私の中の大まかな日本の近現代ストーリーだ。(ものすごく大雑把で取りこぼしも多いが)それほど違和感はないだろう。
さて、何が問題なのだろう。私が思うに、他者に「共感と理解」を求めてしまう自意識と「共感と理解」を得ることを(政治的な)目的としてしまうその心理的傾向に「問題」はある。
個人の間で「ね、ね?(わかってよ)」という心情は理解できる。一種の甘えだが、親密な関係というのは(殊、日本においては)共依存の関係から成り立つので、隣にいる家族(妻・夫・子供・両親)がまったく理解を断絶した存在という認識には立ちにくい。(無理)
だが、ここがポイントなのだが、親密圏を超えた場所でも、私は「共感と理解」を求めてしまったりする。「ここまでやれば、お客様もわかってくれる。」「これだけやったんだから部長も認めざるを得ないだろう。」
よく考えるとそれには何の根拠も保証もないのだが、日本という大きなストーリーを共有している者同士だと、得てしてそれが成り立ってしまうケースが多い。ここが日本の組織が「擬制の血縁」(山本七平・司馬遼太郎)となり、西洋的な機械論的組織にならない理由である。
もちろん「日本というストーリー」は共同幻想に過ぎないのだが、そんなことを考えながら生活する人はいない。面倒くさくていちいち「お、こりゃ幻想だ」などと意識することなどできはしない。またその必要もない。
それゆえに「他者」は「自分ではないので断絶している」という認識が持ちにくい。大抵の日本人ならこう考えるだろうというのが成り立ってしまうからである。
しかし、薄々は気がついている。「果たして皆は自分と同じように考えてはいないかもしれない。」それ故にやたらと周りからどう見られているかに気を使う。そしてそれは常に受身の姿勢である。(「見られて」いるのだから)
そう考えるから、尖閣諸島についても「我々は正しい見方をしているのに、中国は正しい見方をしていない」となる。こちらが間違っていない限り、間違っているのは向こうであり、偏った愛国主義教育の為に間違った歴史認識を持ち、いちゃもんをつけているようにしか見えない。事の拙劣はあるだろう。愛国主義的教育は実際以上に反日感情を植えつけるのかもしれぬ。しかし、かといって外国にこちらの認識を共有させることなどできない。所詮は外国なのだ。
まず、他者は「理解できない」事を学ばねばならぬ。もちろん、私も。他者はどこまでいっても他者であり、自分自身の延長にはならない。ましてや外国ならそうである。もっと徹底的に他者である。同じ人間という程度の共有基盤しかない。中国人に日本というストーリーを共有させることはできないし、その必要も認めないだろう。
そこから出発すると「理解と共感」など求めようがないことがわかる。これはあくまで受身の語法であり、「理解してもらう」「共感してもらう」のであり、相手にこちらの認識を共有「してもらう」事に他ならない。そんなことは理解の断絶した他者には無理だ。
「相手は変えようがないが自分は変わることが出来る」だれが言ったかは知らぬがそのとおり。これを私は「理解と共感など求めようもないが、そう覚悟してこちらの目的と行動を改めることは出来る」と解釈している。
まず、「理解と共感」を求めることを(少なくとも外交関係には)諦めることである。だれも日本を理解できないし、共感もできない。当たり前である。日本じゃないのだから。その上で、別の目的と目標を持つことだ。アメリカ式に俗っぽく「世界戦略の遂行」でもよいし、東洋式に現実離れした「東方君子国となる」でもよい。どちらも理解と共感など求めていない。能動的な、つまり自分にかかわるものである。
中国や韓国への軽蔑感やわだかまりはおそらく、きっと「理解しあえる・共感しあえる」と勘違いしてしまうことから始まる。悪い意味での自己投影なのだろう。そうではなくて徹底的に突き放し、この理解できない他者とどのように平和裏に共存し、東方君子国としての立場を作り上げるか/世界戦略を実行し、東洋の覇者とならんかと考えるほうがおそらく解決は早い。
まさか日本人が「理解と共感」を目標にしているとは中国人も韓国人も思うまい。だからきっと、こちらの行動が「理解できない」
現実主義とは所与の事態に逐次的に対応することではない。自ら考え、目的を定め、現実を動かしていくことである。馬鹿々々しいと言わず、日本の国家目標はなんなのかをそれぞれが考えて、議論することでしか、現状は変わらないだろう。
尖閣諸島の問題に端を発した、中国国内のデモと暴動。色々な人が色々な事を言っている。この文章もその色々にひとつ追加するだけだが、思うところをまとめてみたい。
自分自身の思想傾向は、あくまでドメスティックだが政治的には右寄り、経済的には中道左派くらいになるのだろう。まあ、よくいるタイプというのが自己分析である。この左右の分類も実に怪しいものだが。
世界一安全な日本国内おいて、対立を煽るようなセリフを撒き散らしがちなのだが、なぜそのように考え、発言してしまうのかを考えてみる。「よくいるタイプの」分析であるから、ある程度普遍性があることが言えるかもしれぬ。
まずは我々の世代(1975年生まれ)の受けてきた教育(家庭・学校・社会)から自分の中に形成された近現代の日本の物語を考えてみる。いわゆる「歴史」ではない。ストーリーだ。
明治維新の引き金を引いたペリー来航から祖父たちが戦った第二次世界大戦まで、日本は機械文明として立ち遅れた(日本的)封建主義社会から、西洋列強国に伍す、ただそれだけのために全力を尽くした。
憲法の制定をはじめとする近代法の整備、不平等条約の解消、富国強兵に集約される産業の近代化と軍備拡張、そして終わりつつあった帝国主義への遅れた参加。栄光のシンボルとしての日露戦争の勝利。
日本の権益を守るための日華事変(日中戦争)や日韓併合。台頭する非白人国家への恐怖としての国際社会での孤立。真珠湾攻撃、絶望的な攻撃としての特攻隊、米国の原爆投下によるカタストロフと敗戦。
東京裁判史観を受け入れ、「軍部が悪かった」ことにしてGHQ支配の下に始まった焼け野原からの戦後復興、「押し付けられた」憲法の受け入れ、日米安保への安全保障と奇跡的な経済成長。ソニー・本田・松下の立志伝、トヨタの栄光、バブルの狂乱と崩壊。
長期停滞から、少子化・デフレ・新興国の台頭による相対的地位の低下。
そして現在の自意識としてはこうだ。「我々はひたすら我慢している。、相手のことを考えて、世界に言いたい事も言わずに。そして我々の歴史観は概ね中立で大きく間違っていない。」
ざっとこんなところだろうか。これが私の中の大まかな日本の近現代ストーリーだ。(ものすごく大雑把で取りこぼしも多いが)それほど違和感はないだろう。
さて、何が問題なのだろう。私が思うに、他者に「共感と理解」を求めてしまう自意識と「共感と理解」を得ることを(政治的な)目的としてしまうその心理的傾向に「問題」はある。
個人の間で「ね、ね?(わかってよ)」という心情は理解できる。一種の甘えだが、親密な関係というのは(殊、日本においては)共依存の関係から成り立つので、隣にいる家族(妻・夫・子供・両親)がまったく理解を断絶した存在という認識には立ちにくい。(無理)
だが、ここがポイントなのだが、親密圏を超えた場所でも、私は「共感と理解」を求めてしまったりする。「ここまでやれば、お客様もわかってくれる。」「これだけやったんだから部長も認めざるを得ないだろう。」
よく考えるとそれには何の根拠も保証もないのだが、日本という大きなストーリーを共有している者同士だと、得てしてそれが成り立ってしまうケースが多い。ここが日本の組織が「擬制の血縁」(山本七平・司馬遼太郎)となり、西洋的な機械論的組織にならない理由である。
もちろん「日本というストーリー」は共同幻想に過ぎないのだが、そんなことを考えながら生活する人はいない。面倒くさくていちいち「お、こりゃ幻想だ」などと意識することなどできはしない。またその必要もない。
それゆえに「他者」は「自分ではないので断絶している」という認識が持ちにくい。大抵の日本人ならこう考えるだろうというのが成り立ってしまうからである。
しかし、薄々は気がついている。「果たして皆は自分と同じように考えてはいないかもしれない。」それ故にやたらと周りからどう見られているかに気を使う。そしてそれは常に受身の姿勢である。(「見られて」いるのだから)
そう考えるから、尖閣諸島についても「我々は正しい見方をしているのに、中国は正しい見方をしていない」となる。こちらが間違っていない限り、間違っているのは向こうであり、偏った愛国主義教育の為に間違った歴史認識を持ち、いちゃもんをつけているようにしか見えない。事の拙劣はあるだろう。愛国主義的教育は実際以上に反日感情を植えつけるのかもしれぬ。しかし、かといって外国にこちらの認識を共有させることなどできない。所詮は外国なのだ。
まず、他者は「理解できない」事を学ばねばならぬ。もちろん、私も。他者はどこまでいっても他者であり、自分自身の延長にはならない。ましてや外国ならそうである。もっと徹底的に他者である。同じ人間という程度の共有基盤しかない。中国人に日本というストーリーを共有させることはできないし、その必要も認めないだろう。
そこから出発すると「理解と共感」など求めようがないことがわかる。これはあくまで受身の語法であり、「理解してもらう」「共感してもらう」のであり、相手にこちらの認識を共有「してもらう」事に他ならない。そんなことは理解の断絶した他者には無理だ。
「相手は変えようがないが自分は変わることが出来る」だれが言ったかは知らぬがそのとおり。これを私は「理解と共感など求めようもないが、そう覚悟してこちらの目的と行動を改めることは出来る」と解釈している。
まず、「理解と共感」を求めることを(少なくとも外交関係には)諦めることである。だれも日本を理解できないし、共感もできない。当たり前である。日本じゃないのだから。その上で、別の目的と目標を持つことだ。アメリカ式に俗っぽく「世界戦略の遂行」でもよいし、東洋式に現実離れした「東方君子国となる」でもよい。どちらも理解と共感など求めていない。能動的な、つまり自分にかかわるものである。
中国や韓国への軽蔑感やわだかまりはおそらく、きっと「理解しあえる・共感しあえる」と勘違いしてしまうことから始まる。悪い意味での自己投影なのだろう。そうではなくて徹底的に突き放し、この理解できない他者とどのように平和裏に共存し、東方君子国としての立場を作り上げるか/世界戦略を実行し、東洋の覇者とならんかと考えるほうがおそらく解決は早い。
まさか日本人が「理解と共感」を目標にしているとは中国人も韓国人も思うまい。だからきっと、こちらの行動が「理解できない」
現実主義とは所与の事態に逐次的に対応することではない。自ら考え、目的を定め、現実を動かしていくことである。馬鹿々々しいと言わず、日本の国家目標はなんなのかをそれぞれが考えて、議論することでしか、現状は変わらないだろう。