キリストは、「右の頬を叩かれたら、左の頬を出しなさい」と言ったそうです。
これについては色々な解釈がなされています。
私が悟りの境地にあった時、キリストの言ったことの意味がわかりました。
悟りの状態では、自我(エゴ)が全く無いので、左脳での解釈が生じません。
頬を叩かれた時、そこに存在していたのは叩かれた自分と叩いた相手です。
ただ、その事実があるだけです。
叩かれたら痛みを感じます。
それも事実です。
行動には、それに先立つ意志があります。
叩こうと思って行動を起こした相手と、叩かれた自分がいる。
相手と私は一なるものからの分霊であるので、元々は一つで区別がつかない存在。
私も相手も愛すべき尊い存在です。
叩いた相手を愛しています。
それは、叩いた行為を含めて相手の全てを愛してるって事です。
叩かれた自分も愛しています。
叩く意志を持った相手に喜んで左頬を差し出すのです。
決して自分が我慢しているのではありません。
愛してるが故の行動なのです。
決してマゾっ気がある訳ではありません。
叩かれた方は痛みを感じます。
痛みの感覚があって、過ぎ去っていく。
相手、痛み、自分に関連性はありません。
そこに思考が割り込んでくると複雑になります。
生きるって本当は凄くシンプルなことなんです。
我々は無駄にエネルギーを浪費しているのです。
悟りの状態に入っていた期間は何も怖いものがありませんでした。
愛しかありませんでした。
以前のブログの記事で、銃で撃たれる例を出しました。
銃口を自分に向けられていても、自分の意志で行動を起こしている相手に愛を感じているのです。
撃たれても、そこには愛しかありません。
悟った後にこの記事を読んでもらいたいです。
あなたはその時、「だよねっ」てきっと言ってくれるはずです。