戦国アホ武将 その2 斎藤龍興 | 復興に向けた自堕落な戦い

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こんばんは。東北のとのさまです。


久々に、戦国武将を扱ってみたいと思います。



斎藤龍興、ご存知斎藤道三の孫になります。今回は彼について綴っていき


ます。斎藤龍興は1548年に斎藤義龍の子供として生まれ、同じ歳に父義


龍が道三から家督を譲り受けます。しかし、祖父と父が対立しながらも美


濃の地を守り抜きますが、1561年に義龍が亡くなって家督を継いだ後、


家中が弱体化し始めます。


(道三と義龍の関係についてはここでは敢えて割愛します)



元々人望が無かった事もあり、1564年に西美濃三人衆の一人、安藤守


就と竹中半兵衛に城を乗っ取られかけます。このときは両名が家中をまと


めきれずに失敗しますが、この時点でも龍興は何も出来ず、野放しにして


しまいます。そして1567年に西美濃三人衆(残りの2人は氏家卜全・稲葉


一鉄)が織田信長と結んで稲葉山城(岐阜)を落とされ、朝倉家に身を寄


せますが、すでに朝倉家も風前の灯(ここにも義景という同類が・・・)でし


た。


この後が一番アホだったのですが、1573年に織田軍が朝倉家に攻め入


り、龍興も出陣しましたが、その時に裏切った旧臣・氏家卜全の子、直昌


に犬コロのように斬られてしまいました。わずか26歳での死去でした。



ただ、前に書いた尼子晴久とは違い、父義龍がもう少し長生きしていれ


ば、もっとましな武将になっていた可能性もありますが、義龍にも原因があ


って、三人衆をうまく機能させていなかったことが最大の要因かと思いま


す。これによって義龍が死んだ時点で滅亡状態になってしまったので、龍


興の能力はあまり関係が無かったのかもしれません。



しかしながら、自分の力が物を言う戦国時代、やはり龍興には生き抜くだ


けの能力そのものが無かったというのは事実だと言わざるを得ません。


例え織田信長に降ったとしても、重用されずに消された可能性が高かった


でしょう。実際に三人衆も信長に降ってますが、稲葉一鉄ぐらいですね。そ


こそこ使われたのは。それだけこの時代が過酷だったということが言える


でしょう。(竹中半兵衛の場合は秀吉配下になってから重用される)



これを見ていると、やはり自分の力を磨かないと埋没してしまうことを改め


て思い知らされます。これからも更に精進していきたいものです。