村上春樹の「午後の最後の芝生」(「中国行きのスロウ・ボート」中公文庫 に収録)は、芝刈りのお話と非常にざっくり記憶しておりましたが、ちょっと読んでみたら、大切な女性を失ったという共通点をもつふたりが、芝刈りという機会を通じて出会い、濃いんだか薄いんだか良くわからない交流の後、それぞれの生活に戻ってゆくという夏の日の約半日を描いてるですね。
主人公の18か19歳の<僕>は恋人から一方的に別れを告げられ、アルバイトの芝刈りすら馬鹿らしくなってしまうけど、自分の気持ちを良くつかめないでいる感じ。激しく嘆いていないところが、かえって厳しい状況を表してる気が~。対する、芝刈り業務の依頼主である<中年の大柄の女性>は、ティーンの娘を失ったらしく、午前中からウイスキーのロックやウォッカトニックを飲み続けてる依存症のような設定。強いお酒を無頓着にがばがばと飲んでるところが、セリフのそっけなさと相まってやりきれない雰囲気です。
このふたりが最も会話らしい会話(ヘンだけど)を交わすのが、洋服ダンスのシーン。着る人のいない抜け殻のような服を仲立ちにしないと、<中年の大柄の女性>はいなくなってしまった娘のことを話題にできない。一番話したいことだろうにね。一方、<僕>にとっても別れた彼女のことを、他人には話すことができない。<僕>も<中年の女性>も、気持ちの中で一番大きな場所を占めていることに限って話せなくなってます。
ジンセーの中で何が辛いといえば、辛いことを辛いといえない時じゃないでしょうかね。
「ああ、しんどい」「辛すぎる。たまりまへん」
といえる時は、実際のところ一番きつい時期を超えてたりします。物語に登場するふたりは、いろんなことを脈絡なく話せる、井戸端会議のようなものには全く興味がないだろうし、そもそもあまり人と話す必要がないキャラなのかも。しかし、何かことが起こると、辛さを吐き出さないともちませぬ。
服を仲立ちにするという、人と人の間に1枚かませるようなコミュニケーションは、そういうやや厄介なタイプの人にもできる交流のバリエーションじゃないでしょうかね。<僕>と<中年の女性>が出会ったのは、お互いのニーズが引き寄せたある種の幸運だったのかも。
そう考えると、悲しく切ないトーンのこのお話は、ひとつの救いの形のようにも読めるなあ。青い空と芝生は、大きな喪失感を抱えて生きている人を描いたストーリーの背景として効いてると思うです。ちなみに着る人のいない抜け殻のような服の数々は、「トニー滝谷」(レキシントンの幽霊 (文春文庫)
芋蔓本として最後に画像をくっつけようと思ったんですが、消えてしまった女性を追う男性作家を主人公にした、片岡義男の「道順は彼女に訊く」角川文庫
現実の世界のことはちょっと脇において、知的な遊び心が赴くまま人物を配置し、それを自由に動かすことを純粋に楽しんでいるような、抽象的な味わいのある小説を片岡義男はたくさん書いてますが、これもそういう流れの中の作品だと思います。
ミステリーのようでもあり、ルポのようでもあり、「これはなんだろう?」という筆致に関する軽い違和感を含めて楽しく読める1冊。ローティーンの少女に「赤い霧になって消えたら格好がいい」と死について語らせる「たしかに一度だけ咲いた」(少女時代( 双葉文庫) に収録)という、
「これもカタオカヨシオですかいな?!」と意外さにびっくりさせられる短篇もありましたね~。片岡さんにとって「人が消える」ということは、作歌魂をくすぐる題材のひとつなのかもしれません。