★人生は一度きりである。
★人間は必ず死ぬものである
★そもそも自分は人間である。
人生で当たり前すぎて暗黙の了解でスルーされている常識。
でも果たして、それって、本当に本当でしょうか??
〝自分は、この
限られた命である〟
という常識。
自分は、この体で、一度きりの人生を生きていて、
いつかは死にゆく存在で、、、
あまりにもフツーに信じ込まれてる、疑いのない死生観。
でも、本当に、それって、ほんとうにほんとう??
あなたはソレを、この体で、目で、肌で、経験しましたか?
自我は反論する材料を過去から持ち出して、
〝だって、おばあちゃんも死んだし、親も亡くなったし、
世間では病気で死ぬ人が毎日わんさかいて、、、〟
自我は目に映るものが
〝私で有る〟
〝私にもいつか訪れる〟
と思い込んでいます。
この肉体も、家族も、親戚の誰かも、テレビで映るニュースも、、、
それを捉えて自分にあてはめ、人生や死生観を構築します。
人間は、この世界に現れている生命の中で唯一
〝思考〟を使って物事を捉える受信器です。
人間以外の他の生命、動物や植物、昆虫や魚、微生物たちは、
同じ命でありながら、太古の命、そのエネルギーを脈々と
引き継ぐ者でありながら、人間と決定的に違うところがあります。
それは
〝自分は、この一度きりの
現れ(物質)である 〟
という思考と情報で自分を区切ってないということ。
人間の自我の根本デフォルトは
〝自分はこの肉体である〟
〝自分は人間という物質で
限られた人生、命である〟
〝自分はいつかは必ず死ぬ〟
ということ。
思考で捉えている自分の命のイメージが、
この受信器である肉体だけだと思い込んでいることです。
これは、なんだかおかしくないですか??
ということに気づいたアナタ、だいぶ自我の思い込み
受信器トリックから抜け出してきましたね(笑)
どうして他の動食物たちが短命でありながら、
あんなに自分たちの命を惜しげもなく、
全体の食物連鎖という命の中に差し出せるのか?
他の動植物たちは、思考を使わず、その命のしくみ、
成り立ちや情報を細胞レベルで受け取っているのに比べ、
人間は思考を使って、いのちを断片的に捉える受信器です。
(※本当は他にも沢山命のしくみや情報を
受け取っているのですが、
思考が肥大化し過ぎているため受け取れない)
同じ命の現れでありながら、唯一、人間という受信器だけが
持ち合わせ、恐れていること。
〝いのちはリミットがあり限られている〟
〝いのちは現れている間だけの
有限のもの(物質)である〟
〝いのちは終わりがあり、
もう二度とやってこない〟
それは自我が自分を人間だと信じ込んだ
精いっぱいの表現であり、命を断片的に捉えて
説明しようとする傲慢で浅はかな浅知恵であり、
自分を小さな命というイメージに閉じ込めた、
あまりにも窮屈で狭い限界のある、
思考という想像の産物なのかもしれません。