私たちの自我は、普段の自分がやっていること、

 

 

 

これまでしてきたことを、
 
 

 

プレイヤーやキャラクターの視点で捉えようとする。
 
 

 

『自分は、今まで、

こんなことをやってきた!』
 

『私は、こういうことを

しているんだ!!』
 
 

 

自我である私は、この体であり、この精神であり、この活動であり、

 

 

 

 

プレイ(行為)キャラ(人物)に成り切っているので、
 


 

そこから世界を見ると、

 

 

 

 

世界は自分と違う

プレイヤーばっかり

(行為者意識)
 
 

自分とは違う視点の

ムカつく考えや精神論を

語るキャラばかり

(人格意識)
 
 

 

 

プレイ(行為)とキャラ(人格)の世界にいると、

 

 

 

 

外の世界に登場する同じプレイヤーやキャラクターたちは

 

 

 

 

または自分自身が、由々しき問題ばかりに見える。

 

 


 

倒したいけど倒せない、ぎゃふんと言わせたいけど、

 

 

 

 

言わせる相手がいない、直したいけど治らない

 

 

 

 

(すべて実体なきイリュージョンなので)
 
 

 

 

つまりプレイヤーやキャラクターという視点から世界を見ると、

 

 

 

 

倒せないイリュージョン相手に、自分の世界で、

 

 

 

 

ずっとひとり格闘家のように

闘わなくてはいけなくなる。
 
 

 

そんな不毛な視点のエネルギーから、少し抜け出してみると、

 

 

 

 

そこは、ただある、観照の世界。
 


 

プレイヤーやキャラクター視点で見ていた時は、

 

 

 

 

問題に見えていたことが、闘っていた自分から一歩抜けて、
 
 

 

 

目の前に拡がる世界を

愛しく見つめている

視点に戻る。
 

 

 
 

その観照者の視点から、

 

 

 

 

プレイヤーやキャラクターという意識を使わずに、

 

 

 

 

ただ流れていく目の前の世界を視てみると、
 
 

 

どんなことが起きても、ただ包み込んでいる何かに、

 

 

 

 

徐々に気づいていく。
 
 

 

その気づきと共に、その大きな観照する側にいてみると、
 
 

 

 

目の前でどんなに白熱の試合が繰り広げられていても、

 

 

 

 

ワントーンずつ剥がれ落ちて行き、やがて静かな静寂に辿り着く。
 

 

その静寂から生まれる、音、光、流れに、
 
 

 

行為者は誰もなく、ただここに、言葉が生まれ、

 

 

 

 

表現が生まれ、新しい何かが生まれる。
 
 

 

 

ただ毎瞬、創造している、その何かに、

 

 

 

 

私たちは生かされていることに、ただ気づいていく。
 
 
 
目の前の事を捉え、プレイヤーやキャラクターの枠にはめ、

 

 

 

 

成りすまそうとした意識たちが忍び寄ってきても、その誘いに

 

 

 

 

うふふ(*´艸`*)と笑って

乗らずにかわし
 
 

 

永遠に失われることない、この視点に、

 

 

 

 

ただ戻って行く。