人生とは一生の相手である、

 

 

 

この〝わたし〟との、

 

 

 

ガチの子育てである。

 

 

 

未だに子供の頃の未消化の思いや感情が出てくるのは、

 

 

 

 

それは親が聴いてくれなかったからじゃない。

 

 

 

 

環境や家族や周りが、気づいてくれなかったからじゃない。

 

 

 

〝自分〟が

〝自分〟に気づいて

 

あげられなかった

ほかにならない
 
 

 

 

なので、親や周りの誰かに、自分をぶつけてもムダなのだ。
 
 

 

 

ぶつけるのは、あくまでも、ここにいる自分。
 
 

 

 

いつでも自分が、どんな自分とも、

 

 

 

 

 

真っ向からタイマンで向き合ってあげる相手なのだ。
 
 

 

 

つい最近、ゆにこはずっと避けてきた〝怒り〟と対峙した。
 
 

 

 

昔から〝怒り〟が苦手で、避けて触らぬように隠れる自分がいた。
 
 

 

 

で、そこにガチンコで勝負した。
 
 

 

 

元を辿っていくと、父や兄という、幼き日の抗えない

 

 

 

 

一方的な怒りをぶつける人達から、身を隠すための処世術

 

 

 

 

だったのだけれど、それを今も続けていた。

 

 

 


 
 

 

周りの怒りから、隠れ続けていた自分の、

 

 

 

 

本当の望みを聞いてみた。
 


 

『ワタシだって、快適に、穏やかに、

ここで暮らす権利がある。

これはワタシの命の権利だ!!』
 
 

 

まるでウォーリヤーのように、拳を上に突き上げ、

 

 

 

 

This is Meを歌うキアラ・セトルのように、

 

 

 

 


 

 

小さい時の自分と、今の自分が、拳を上に突き上げた。
 
 

 

これは、いのちの主張。

命を守るエネルギーの主張。
 
 

 

ずっと『怒り』が苦手な感情で避けて通りたいものだった自分が、

 

 

 

 

 

正当に、周りの怒りの感情を跳ね除け、自分の命を主張した。
 

 

 

 

その瞬間、私の目からは涙が流れた。
 
 

 

 

 

〝わたしだって、生きたい。

 

快適に、誰にも

 

自分の心身を脅かされず

 

穏やかに、自由に、

 

今ここに生きたいんだ!!〟
 
 

そうやって、ひとつひとつ、自分の思いを、

 

 

 

 

まるで自分の母親のように、

 

 

 

 

すべて汲み取り、聴いて出してあげる。
 


 

人生とは、一生、この作業の繰り返しなのかもしれない。
 


 

 

愛しい、愛しい、我が子、
 
 

 

 

〝わたし〟という愛の子を守って生かしてあげるために。