自分というものは、この肉体というパソコンに、

 

 

 

途中でインサートされた情報の束の集積を、

 

 

 

まとめて〝自分〟という。
 
 

 

もし、あなたのことを全く知らない人が、

 

 

 

あなたというパソコン(肉体)をみて、そのインサートされた

 

 

 

情報を知らなかったら、なんていうだろう。
 
 


 

何が好きで何が嫌いで、何が得意で何が不得意かも、

 

 

 

 

 

すべてはパソコンが起動してみないとわからない。
 


 

 

好き、嫌い、というのは、単に生まれ持ったパソコンの型に

 

 

 

 

ハマるかハマらないか、というのもあるし、
 
 

 

生まれつき弱い機能を補助してくれる情報でもあるし、

 

 

 

 

成長過程で「ない」と勘違いされたものを

 

 

 

 

埋めてくれる情報だったりする。
 


 

得意不得意も、生まれながらにインサートされてる

 

 

 

 

データ(先祖データ)もあるし、それを簡単に

 

 

 

 

生かすことが出来る人もいれば、

 

 

 

 

どれだけ努力してもできない、という場合もある。
 
 

 

要は、自分の好き、嫌い、得意不得意は、

 

 

 

 

このパソコンを起動させている時に、

 

 

 

いかに余計なエネルギーを

使わずに起動できるか
 
 

 

予め自分の好きなもの、嫌いなもの、得意不得意データが

 

 

 

 

ハッキリしていると、余計な一般情報をインサートして取り込み、

 

 

 

 

肉体というパソコンを、世間の情報に合わせて

 

 

 

 

重い情報処理までしなくて済むからだ。
 
 

 

つまり、自分の好き、嫌い、得意不得意は、

 

 

 

 

肉体というパソコンを軽く起動しやすくするためのデータであり、
 
 

 

同じことをグルグルやって、捉まり続けるためのものではない。
 
 

 

好きなこと、得意なことをやっていても、

 

 

 

 

どこか生きづらさを抱えていたら、

 

 

 

 

〝自分の弱さを埋めるために

インサートされた情報〟

 

 

 

かもしれないし、

 

 

 

 

好きなことや得意なことをやっていれば

 

 

 

 

見なくても済む、隠れ蓑データがあるのかもしれない。

 

 

 

 

どんなに好きなことも得意なことも、
 
 

 

好き嫌いと、得意不得意を、

自分と同一視しない。
 

この肉体も、ここにくる情報も、

 

 

 

 

生まれ持ってのインサートなデータも、

 

 

 

 

自分と同一視すると、何とかそれを活かしてやろう、

 

 

 

 

陽の目を見せてやろう、という野暮な野望が湧いてくる。
 
 

 

 

それを活かして、やらせてやりたい野望を持ってるのは、

 

 

 

 

 

一体誰か?
 


 

そう言ってくるエネルギーは、肉体やいのちを度外視した、

 

 

 

 

あなたのことを考えていないエネルギーであることが多い。
 
 

 

 

私たちはインサートデータにまみれて、

 

 

 

 

それを自分と混同し、同一視している場合がある。
 
 

 

 

本来の望みは、いのちを度外視した

 

 

 

 

〝やらせたがり〟のエネルギーではない。
 
 

 

〝そのデータやってもいいけど

やらなくてもいいよ。

 

  自分に無理しないでね〟
 
 

 

あくまでも私たちの好きにさせてくれるが、無理はさせない。
 
 

 

体やいのちに無理してでも、周りに歓迎されてると

 

 

 

 

勘違いして承認される喜びでやってしまうことを、
 
 

 

何ひとつ求めてない、いのちがある。
 
 

 

私たちは、データを喜ばせるために、過不足データを

 

 

 

 

埋めようとするために、動かされているわけではない。
  
 

 

ここにあるいのちが喜ぶことを、息を吹き返すことを、

 

 

 

 

エネルギーが満ちてくることを、ただ望んでいる。